正定事件 資料
カトリック新聞 昭和十二年十二月二十六日 第六百三十六号 P1 原典縮小版
田口師の正定便り
胸迫る・この信頼ぶり
紅葉の手で“お土産有難う” 教会が育む北支良民
【正定天主堂にて 田口師発】
11月19日、保定から正定に着いた。
駅を降りると小雪が粉々と降っている。
正定駅から城内までは約一里近くもあるので、正定唯一の兵站部の自動車をかりて城内の天主堂に向かった。
暫く行くと遥か向こうに二つの尖塔が見える。
正定の天主堂だ。
その左には永い歴史を誇る大仏寺が見える。
ラマ寺は城内の中央に聳えている。
城壁に近づくに従って砲弾に壊された塚や城門近くに掘られた塹壕、飛行機避けの地下穴がそこかしこに見える。
城壁の左端はものの見事に爆破され、日支両軍が如何に激戦を交えたかを雄弁に物語っている。
保定が思ったよりも脆く崩れたので最後の守りとして正保によったらしい。
道とは思われぬひどい道を廻って漸く天主堂に辿りついた、正定の天主堂は実に素晴らしい広大の構えだ。
二万坪はあろうと思われる大建築である。
正門を潜れば左は聖ジョセフ修女院で、これは信者の子女に公教要理を教える人々を養成するところである。
この奥が教会経営の女子学校で、パウリスト修士等が主になり、神父が校長として之を経営している。
正面を真直ぐに進めば司教座聖堂がある。
二つの尖塔をいただき二千人の信者が入れるような大聖堂で、その右手が司教館と教団本部である。
この教団本部は万事自給自足で、発電所、印刷所、靴製造所、酒造所が出来ていて、天主堂の左手に聖女会経営の「仁慈堂」があり、此処には千二三百の世間のいわゆる敗残者を収容し、それぞれに職を教えて自給自足を目指している。
私は東京双葉高女有志から頼まれた聖絵やメダイ、それに京都西陣教会婦人会からのキャラメルの大きな箱二箱をこの仁慈堂に持って行って
「之は日本のカトリック信者がわざわざ支那の信者に贈ったものです。日本の信者は皆様のために祈っています」
と言った処、非常に喜んで先を争ってキャラメルを欲しがり二、三才になった子供達ばかりの一団は可愛い手をたたいてしきりに何か叫んでいた。
こちらの婦人ばかりの一団は喜びを全身に現して日本信者の好意に報い、その中の代表者が立って
「日本のカトリック信者に心から感謝致します。よろしく御伝言下さい」
と声をふるわせて言った。これを聞いたとき私は思わず目頭が熱くなった。
翌日、日本の兵隊さんが部隊長に引率されキャラメルや日本の絵葉書、案内書、メリケン粉等を持って日本の宣撫班の人々と仁慈堂を慰問に来た。
収容者は大喜びで千二三百人が総出で大天主堂側に並び、皇軍と日本の宣撫班の人々を迎えた。
兵隊さんは習ったばかりの支那語の単語で子供に挨拶すると、分かったのか分からないのか、子供はただ笑ってばかりいる、嬉しい風景だ。
朗らかな日支親善風景、中には日本語の読本を持ち出して日本語の手ほどきをやり出す兵隊さんもいる。
子供達は熱心に兵隊さんの口真似をする。
何処に行っても日本語熱だ。
教会の支那人司祭も数名日本語の文法書を申込んで来た。
同行の映画班がこの美しい和やかな親善風景を映画に収めている。
私は頼まれてこの人々を前に日本カトリック信者からのメッセージとして「信仰による日支親善」をといた。
教団長代理ジャネ師は支那側の代弁者として心から日本の信者に感謝している旨を述べた。
ここの哀れな孤児達にも美しい御絵を分けてやると、日本信者の真心こもる御絵を見て皆嬉々として喜んでくれた。
ここには保定仁慈堂の孤児達も非難している。
保定大会戦の直前正定の同会経営の仁慈堂に避難して来たものだ。
しかし保定も今は全く治安が回復したので聖母会の童貞様方や孤児、避難民等二百人は今日(十一月二十四日)皇軍や宣撫班、正定治安維持会等の計らいで日本の宣撫班に引率され特別仕立ての列車で午後三時懐かしい保定へ帰って行った。
避難民達は皇軍の恩沢を深くその小さな胸に刻みつけられたことだろう。
駅頭には日支親善の生きた手本として、又国際親善として正保各機関の幹部がこの優しい支那良民の嬉しそうな姿を総出で見送っていた。
在支教会は非常に民衆の信頼の的となり、事変中は教会に避難する者が多い。
実際民衆は役人や支那兵に信頼が置けず結局教会に最後の避難所を見出すのだとつくづく感じられた。
明朝は飛行機で石家荘。それから山西省の太原へと向かう予定。
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