キリスト教を忘れたヨーロッパ?
-ランスで考えたことを中心に-

2012.10.14


  教皇ベネディクト16世は、今年10月11日から来年の11月24日までを「信仰年」と定め、現代社会におけるキリスト教布教と信仰の刷新をテーマに世界各国から司教がローマに集まり司教会議(シノッド)が開催されている。その席上で教皇は、洗礼を受けながらも教会とは全く疎遠になった人々を再び教会に導くためには、全ての信徒と聖職者が安易思考中心の現代の潮流に溺れることなく、自らの信仰を刷新させることが第一歩であることを力説された。世俗化、非キリスト教化の現象が最も著しい欧米社会の精神的な再生のために必死で健闘するのは、司祭と信徒に与えられた最大の課題であろう。西ヨーロッパ各国、特にドイツ語諸国と北欧諸国がもはやキリスト教国と言える状態ではないことについては、過去の[ヴァチカンへの道]誌で各種の実例を挙げて報告した通りである。今年8月には祖国ドイツの教会現状を深く憂慮する教皇ベネディクト16世の心中もドイツ駐在ヴァチカン大使ぺリセ大司教を通じて伝えられたが、これに耳を傾けた者は殆どいなかった、というのが現実である。

http://www.oecumene.radiovaticana.org/ted/Articolo.asp?c=613090

  西ヨーロッパ各国では左翼系有名人によるキリスト教批判や教会・教皇批判が近代的知識人の声としてもてはやされ、これを支持するマスコミ報道の影響により、文化と伝統の基層を成したキリスト教を忌避する姿勢が社会の至るところで感じられるようになった。しかもキリスト教冒涜、教皇罵倒などに対して世論は果てしなく自由と寛容の精神で臨む反面、トルコ系移民などの影響で増加の一途を辿るイスラム教には異常なばかりの配慮と気配りをするという歪んだ姿勢が顕著に見られる。
[十字架などキリスト教的な光景は、他宗教者や無宗教者の精神を傷つける。]
との名目で、旅行会社から十字架を除去するように要請された教会もあるほどである。この愚かしい姿勢は、自らの宗教と文化に対する自覚の喪失と羞恥心の表れにすぎない。他宗教の存在をも認め、これを尊重するという真の寛容精神とは程遠いものである。しかし自らの伝統的な宗教と文化に対するこのような屈折した風潮に異議を唱えることは難しく、真の言論の自由が危ぶまれていることを指摘する教会関係者は少なくない。
http://www.kath.net/detail.php?id=38108

  また学校教育でもナチ・ドイツの戦争犯罪の反省と称して、実質的には自国に対する自虐と軽蔑の精神を教室で煽り立てる左翼系の教師も多い。このような環境からキリスト教的な伝統や歴史・文化に対する理解や畏敬の念など育まれるはずもないであろう。クリスマス、復活祭などを大々的に祝うだけで、その意味を全く知らない層が激増しているのは当然の帰結である。

  今年9月26日の Frankfurter Allgemeine 誌に発表された世論調査の結果によると、使徒信条の内容(三位一体、復活その他)を本気で信じるのは、カトリック信徒ですら約46%であり、もはや半数以下である。またこの調査によると旧東ドイツ地域では人口の80%が無宗教者である。共産主義体制は崩壊しても、長年の無神論・無宗教教育の果実は確実に実を結んだわけである。

  さらに民主主義と寛容を口実にヨーロッパ社会の世俗化・非キリスト教化をさらに推進させようとするのが欧州連合に属する少なからずの政治家である。 
  第二次世界大戦後、西ヨーロッパ各国の政治家は自由と民主主義に立脚した社会の再建を目指し、将来のヨーロッパ統合を誓い合った。当時の政治家は皆、戦後社会の建設と復興に際してキリスト教精神が政治理念の根幹にあることを認識していた。しかし時代と共にこのような精神と意識は消滅し、世代も完全に交代した現在、欧州連合は経済的な利益追求の集団に化し、宗教の自由を口実にして、実質的にはキリスト教の影響力を社会から完全に排除しようとする政治家が増えてきた。そこで[ヨーロッパ統合]だけをスローガンとして声高に叫ぶ現代の政治家が、ヨーロッパ社会の基層であるキリスト教精神と歴史的な意識の欠如をさらけ出した最近の一例をご紹介したい。

  パリの北東142kmほどの町ランスは、純ゴシック建築の壮麗な大聖堂を世界に誇るフランス屈指の古都である。戦後フランスに帰化した日本人画家レオナール藤田(藤田嗣治1886-1968)はこの大聖堂で夫人と共に洗礼を受けたので、日本人にも縁ある場所と言えるであろう。


 

  さて今年7月8日にこの壮麗な大聖堂を共に訪れたのは、ドイツのメルケル首相とフランスのオランド大統領である。しかし両首脳にはランス訪問の歴史的な意義を十分に弁えていたという姿勢は見られず、せっかくの行事は精神的な重みを欠く滑稽な結果に終わってしまったようだ。その事情は下記の通りである。

  古代ローマ帝国の衰退に乗じてその領土を蹂躙したゲルマン諸民族の大多数はキリスト教徒ではあったが、アタナシウス派の正統キリスト教ではなく、三位一体論を否定する異端アリウス派の信奉者であった。これに対して最終的にゲルマン諸民族を統一したフランク族は全くの異教徒であった。しかしフランク族の王クロヴィスが同じくゲルマン人であるアレマン族との戦いに際して、妃クロティルデの影響により496年に聖レミギウスからアタナシウス派の正統キリスト教、即ちカトリック教会の洗礼を受けた場所がランスであり、その上に建てられたのが現在の大聖堂である。クロヴィスの洗礼は、ゲルマン民族とローマ・カトリック教会との精神的な絆が成立したことを意味している。そのためにランスは西ヨーロッパのキリスト教精神と文化の揺籃の地とされ、その歴史的な意義は極めて高い。このフランク民族こそが後のフランスやドイツなど西ヨーロッパの諸国民の先祖である。後にヨーロッパ統一の父とされるカール大帝支配下のフランク王国の領土は現在の西ドイツ、フランス、北イタリア及びベネルックス3国をほぼ包括し、その住民も全てフランク人と呼ばれていたのである。

  しかしカール大帝の孫達が残された領土を巡って争いあったためにフランク王国は分裂し、これを最終的に調停した870年の領土取り決め条約の結果、次第に国家として発展したのがドイツ、フランス及びイタリアである。この条約でランスはフランス領となり、今後はフランス国王の戴冠式がランス大聖堂で行われるようになった。やがてフランス国民主義の高揚に伴い、フランス国王の戴冠式の場としての大聖堂の意義だけが一方的に宣伝されるようになった。しかもドイツとフランスは今後も領土争奪戦を展開し、共通の先祖(フランク族とカール大帝)の血を分けた兄弟国であることを次第に忘れ、共に不倶戴天の仇となり、その対立は第二次世界大戦終結に至るまで続いたのである。このような事情でキリスト教ヨーロッパの精神と文化の故郷としてのランスの歴史的な意義を重視することも稀になっていた。

  この風化していた精神と歴史的な意識を蘇らせたのは、第二次世界大戦後のドイツのアデナウワー首相とフランスのド・ゴール大統領であった。前者はナチ・ドイツ政権に賛同しなかったために監禁、収容所送りなどの辛酸をなめ、戦後は首相としてドイツ社会の復興と名誉回復のために献身すると共に、いち早く旧敵フランスとの和解を求めた人物である。一方、後者はフランスの対独レジスタンスを勝利に導いた英雄で、戦後に大統領として望んだことは宿敵ドイツとの和解であった。二人の政治家は、両国の和解と友好なくしてヨーロッパに平和と統一は成立しないことを深く意識していたのである。そして相互の和解と友情を目指す二人の政治家を結びつけていた共通の絆はカトリック信仰であった。これを土台にして9世紀から続いた両国の敵対意識を克服し、和解と将来の友好を誓う出会の場所として選ばれたのがランスの大聖堂である。こうして1962年7月8日、二人の政治家はランス大聖堂で両者の仲介役となったランス大司教の出迎えを受け、共にミサに参列して両国の平和と友好のために祈った姿は当時のニュースで大々的に伝えられ、多くの人を感動させた。アデナウワー首相とド・ゴール大統領はフランク王国のクロヴィスがランスで洗礼を受けたことの歴史的な意義を良く知っていたからこそ、ここで共通の先祖を抱く兄弟国として和解と友好の精神で再出発することを誓い、ヨーロッパの統合に尽力することを約束しあったのである。


© ドイツ連邦新聞情報庁

  ランス大聖堂前の広場には、アデナウワー首相とド・ゴール大統の出会いを記念する碑文がはめ込まれている。


  この碑文を見ると二人の政治家の見識の高さ、広い度量と真剣な態度に感服しないわけには行かない。しかも本来ならばフランスでは1905年に政教分離法が確立し、宗教は完全に公の場所から追放され、政治家が宗教行事に参加するなどのことは憲法で厳禁されているのである。しかし1962年7月8日にランスの大聖堂でド・ゴール大統領がミサという宗教行事に出席したという所謂、[超法規]の行為について憲法を縦にとって異議を唱えるような偏狭な根性は問題外であったし、そんな発想すらなかったであろう。

  さて今年2012年はアデナウワー首相とド・ゴール大統領が戦後の独仏関係の和解と友好を誓った感動的、歴史的な出会いを想起する50周年記念であった。これを偲んで50年前と同様の7月8日にドイツのメルケル首相とフランスのオランド大統領がランスの大聖堂で出会い、共に入場して独仏の友好関係を新たに誓い合ったというニュースが流れた。しかし50年前の独仏首脳の歴史的な出会いに比べると、この二人の出会いは精神的な内容の伴わない形式のみで、その質の低下は如何ともしがたいものであった。
  この時、マスコミはランス大聖堂を歴代のフランス国王の戴冠式の場とのみ解説した。しかしランス大聖堂がフランス国民だけの栄光の場であるならば、なぜドイツのメルケル首相がここでフランスのオランド大統領と出会う必要があるのか、と疑問を感じるべきであろう。ランスはクロヴィスの洗礼を通じてドイツとフランスを共通の先祖と精神で結ぶ場であるという点、またキリスト教を軸とするヨーロッパ統合精神の出発地となる点など、歴史的な意義に触れた発言は全く聞かれなかった。メルケル首相とオランド大統領自身もこのような歴史的、精神的な背景についての認識を弁えていなかったようである。また50年前に独仏首脳が出会った時には、教会という場に相応しくミサが行われ、アデナウワー首相とド・ゴール大統領は将来の独仏関係のために心から祈った。まだ第二ヴァチカン公会議以前でミサも勿論ラテン語であり、二人は普遍性を意味するカトリックの意義を大いに感じ取ったことであろう。

  しかし50年経った今回はミサなど最初から問題外であった。プロテスタント教会の牧師の娘であるメルケル首相は、数年前に記者団との会見で教皇ベネディクト16世を露骨に非難して、教会や良心的な信徒の怒りを招いた人物である。また5人の子供の未婚の父であるオランド大統領は無宗教者であり、フランス憲法で規定された政教分離を根拠に、ランス大聖堂側にはミサなど不要であることを事前に通告していた。教会に欠かせないミサは、この二人の政治家には無意味だったわけである。
  二人は揃って形式的に教会堂に足を踏み入れ、共に並んで音楽を聴くだけで終了し、外に出てからユーロ通貨の危機を独仏が協力して解決し、友好に努めたい、というそっけない共同声明を発表するだけという結果で終了した。

  ランス大聖堂の歴史的・精神的な意義を良く理解していたからこそ、和解と友好を目指して長年の敵対意識を葬り、両国を共通に結ぶ絆を再認識して共に祈った50年前のド・ゴール大統領とアデナウワー首相の深い意識と高い見識に比べると、現在のメルケル首相とオランド大統領の姿勢は、その足元にも及ばないであろう。少しでも歴史を知る者であれば、今回の二人の教会入場は、単に50年前の出来事を薄っぺらに真似た茶番劇同様であり、高い精神性や歴史的な意識は全く感じられず、話題にする価値もないほど軽々しい雰囲気で終わったことに気付いたはずである。
[聖レミギウスはここでフランク人の王クロヴィスに496年、洗礼を授けました。]
と刻みつけた石版が聖堂内の身廊にはめ込まれていたのをメルケル首相とオランド大統領は見たであろうか?


  見たのであればここで50年前に独仏の首脳が共にミサに参列したことの意味をよく考えてほしいものである。

  折りしも今年のノーベル平和賞はドイツ、フランスが強い影響力を持つ欧州連合に授与されることになった。民主主義と自由を通じて平和と一致を求める姿勢が高く評価されたためである。しかし現実にはヨーロッパ統合の精神の基礎はキリスト教にあることを無視、或いは否定さえしようとするのが現在の欧州議会の傾向である。ノーベル賞受賞を機にメルケル首相とオランド大統領以下、各国の政治家は、2008年4月9日の教皇ベネディクト16世の講話に謙虚に耳を傾けてほしいと思う。その言葉をそのまま引用したい。

  [ヨーロッパは自らのあるべき姿を捜し求めています。新たな永続的な統一を作り出すために、政治・経済・法律という手段は確かに重要です。しかし、倫理的・霊的な刷新を生み出すことも必要です。この倫理的・霊的な刷新は、ヨーロッパ大陸のキリスト教的起源に基づきます。こうした刷新を行わなければ、ヨーロッパを再建することは不可能です。](教父に関する連続講話。ペトロ文庫2009年発行。331頁)

  しかし教皇の真摯な勧告を無視し、経済的な功利主義に目が眩み、自由、寛容、人権尊重を楯に同愛結婚の擁護や偽りの男女平等論に明け暮れ、これを近代人の証しとして謳歌するのが現在のヨーロッパ諸国の政治家やマスコミ陣の姿勢である。
  そしてカトリック教会はこのような風潮を全て受け入れるように各方面から-教会内からも-迫られており、教会と教皇は時代遅れ、不寛容、非民主的などの非難批判にさらされている。これに対して時流迎合、付和雷同の生き方から信仰の刷新を期待することはできないことを言明された教皇の言葉には深く感謝したい。教皇の言葉は、現在のように精神的な停滞状態が続く限り、ヨーロッパはいずれ知性を欠き、自己中心の殺伐とした社会に堕してしまうことを予言しているように思える。不当な非難・批判を恐れることなく常に明確で適切な発言をされる教皇の態度は、やはり信徒にとって最大の模範となることであろう。

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