ドイツや周辺諸国の教会事情 Atsuko Lenarz 2013.4.13
私は既に30年以上ドイツに住んでおります。この数年来、頼まれてドイツのカトリック教会の成人講座などで日本の宗教と教会の事情 ─ 日本人の一般的な宗教観、相対主義的な日本の精神風土、カトリック教会について ─ ザヴィエル到来からの歴史と現状 ─ 日本人一般のキリスト教観或いは理解度、認識度などについてごく基礎的な話題を中心に一年に1-2回程度ですが、講演しております。何故なら宗教的な面から見た日本の姿はドイツで殆ど知られていないために、日本人は仏教信徒か神道の信徒に決まっているという発想が中心です。日本にキリスト教徒がいるのか、教会もあるのか、などの質問はざらにあります。こんな訳でせめて日本の教会も世界教会の一部であり、全くの少数者ではあっても教会のために日夜頑張っているという姿勢をドイツ人に紹介したいのが講演の目的です。 今日は逆にドイツの教会事情を私の知り得た範囲内でごく僅かですが、個人的な意見も少し交えてお話しさせて頂きたいと思います。私は「ヴァチカンへの道」57号からドイツを中心にした教会事情を色々と発表させて頂きましたので、皆様は大体の状況についてもうご存知だと思います。 ヨーロッパ諸国には由緒ある古い歴史的な教会や芸術的にすばらしい価値のある教会がたくさんあります。そのためにヨーロッパは皆、熱心なキリスト教国であると想像する旅行者や日本人は多いと思います。しかしこれは過去の話しでしかありません。ドイツ司教団は既にドイツはもはやキリスト教国ではなく、布教の対象国であると言明しております。ちなみに現在のドイツの全人口の29.9%がカトリック信徒であり、プロテスタント諸派の信徒は29.2%、東方正教会の信徒は2%程度になります。若年層でいずれかの教会所属者は30%以下となっています。 次に30%には満たないカトリック信徒の実態についてある調査機関が昨年秋にカトリック信徒を対象に行なった調査の結果によると、ミサに定期的に出席するのは、12%程度に過ぎず、大部分の信徒は洗礼、冠婚葬祭、初聖体など人生の節目となる行事、後はクリスマス、復活祭などの大祝日などに教会に出入りするだけということが判明しました。しかもキリスト教の教義、信仰内容を確実に信じると表明した信者は、半数以下でした。この発表結果にドイツ司教団は愕然としましたが、洗礼を受けたのみで後は全く教会とは無関係、キリスト教についての知識も皆無という人々を私は自分の周囲でたくさん見て来ましたので、このような結果を見ても別に驚いておりません。 教会に行かなくなった信徒や正式に離脱した人々の言い分は、[司祭の態度は権威的だ。]或いは[教会が民主的ではない。]というのが大部分です。しかしこの人々の意見をじっと聞いて感じるのは、信徒が司祭と全く対等の関係になりたいと希望していること、ミサは信徒同士の共同集会と晩餐であると考えていることです。 調査の結果、教会と縁を切った信徒と、不満を抱きながらも教会に残っている信徒の両方が現在の教会を時代遅れと見做していることが判明しました。その具体例として慢性的に指摘されるのは、女性が司祭職に就けないために、教会は女性差別の団体と思い込んでいること、司祭の独身制及び同性結婚に対する教会の態度は人権抑圧であると思っていることなどです。しかも教会の停滞と不振は、信徒の希望や意見を受け入れない教皇の態度が原因であると考えている信徒が圧倒多数を占めて、同時にカトリック教会の教義にも自信が持てない信徒が半数以上であることが判明しました。 西ヨーロッパ諸国特にドイツでは、前教皇ベネディクト16世に対する反発感情が強く、[超保守主義者][時代逆行][人権と自由の敵]、[ヴァチカン公会議の裏切り者]などと決めつけて教皇が一言発する度に非難、批判を繰り返して来ました。特に教皇は[相対主義の独裁]について度々注意を促し、現代社会をキリスト教的な観点から影に日向に批判したために、常に攻撃の矢面に立たされていました。 50年前の第二ヴァチカン公会議は信仰の刷新を図り、現代世界に生きる全ての人々に救済と希望の光を照らすために開催されたはずでしたが、各地のカトリック教会は公会議の歌い文句であったaggiornamento(時代への適応、革新・現代化の意)の語を歪曲したため、結果的には教皇の本意とはかけ離れて正統な教会の路線から大幅に逸脱してしまった、ということが今頃になって方々から指摘されるようになりました。それだからこそ昨年10月11日から始まった[信仰の年]に際して、教皇ベネディクト16世は信仰心の刷新と自覚が教会の真の発展の第一歩であると主張しました。それに対して、ドイツのカトリック信徒の大半や世論は女性司祭、司祭の独身制の廃止、同性愛結婚の容認こそが教会の民主化と近代化の第一歩であると叫び、この要求を認めない限り、教会は世界から取り残され孤立してしまうであろう、と主張しています。このような人々を観察していると、信仰の強化と自覚、教義の理解、または宣教の使命などの基本的精神には全く関心がないようで、最初から教皇の姿勢とは全く平行線を辿るのみで、接点がありません。 一方、ヨーロッパ諸国、特にドイツでは人口減少と信徒の教会離れに伴い社会は世俗化し、脱キリスト教化、非キリスト教化に拍車がかけられています。残った司祭は高齢化し、司祭志願者の数も減少しているのを嘆く声は至る所で聞こえて来ます。しかし[司祭不足]という言葉と同時に出る意見は、女性の司祭叙階や司祭の独身制廃止、さらには一般信徒にもミサを司式する資格と権利があるということです。このような要求を振りかざして最近ではオーストリアで教皇に対する不服従を呼びかける司祭連合会が結成されましたが、発起人(ヴィーン在住の司祭)の言い分は、[プロテスタント教会で許されていることを、なぜカトリック教会は出来ないのか。]ということです。これに対して私は[何故カトリック教会は、プロテスタント教会の真似をしなければいけないのか。]と聞きたい思いです。いずれにしても会の発起人はこの運動を国際的な規模で広げたいと大いに張り切っています。これに呼応してドイツ、スイス、フランスでも類似した会が成立し、信徒やマスコミの支持も受けています。 しかもカトリックの政治家 ─ 殆どが先ほど触れた[ドイツ・カトリック信徒中央委員会]の幹部です ─ がカトリック教会の民主化、自由化と称して[女性司祭の導入と司祭の結婚、同性愛の容認]を受け入れるように数年前からドイツ司教団に度々迫っています。このように政治家が教会に介入するのは、日本では見られない現象ではないでしょうか。ドイツでは政治、経済、環境問題、不法滞在している移民の対処などに関して個人的に政治を批判する司教もいますが、司教団として純政治問題に関する声明を公に出すことはめったにありません。逆に政治家の側からのカトリック教会への介入、干渉は露骨に行われ、これに対する批判はありません。なぜならこのような政治家は、マスコミの宣伝に踊らされてカトリック教会とは保守・反動の圧力団体、排他的な秘密結社集団、女性差別と人権抑圧団体などと思い込む世間或いは選挙民の支持があることをよく知っているからです。 このような状況で就任した新しいフランシスコ教皇は、[伝統に囚われない教皇]或いは[庶民的で親しみ易い教皇]などとして今のところではドイツでも非常に好評ですが、この教皇が各種の不当な要求などには譲歩しない姿勢であることが判明した場合には、直ちに前教皇ベネディクト16世同様に非難、攻撃に晒されることは一目瞭然のことです。 一方、社会そのものの非キリスト教化が意識的にも無意識的にも進められていますので、キリスト教や教会についての無知識の度合いは日本人の想像を遥かに超えることがあります。聖書は子供のお伽話と言い切る大人、そして日本と同様にクリスマスは贈り物を交換する日に過ぎない、などと思う人々も激増しています。 次の問題は、このように教会が内部から侵食され、外部からも不当な攻撃や誤解を受けているというのに、司教団が中途半端な態度しか取れないことです。一般世論或いは教会内の多数派に逆らって教会としてのあるべき態度を表明したり、教皇への忠実な姿勢を見せるとマスコミや左翼系の政治家の総攻撃にあい、これに耐える司教は皆無に近いというのが現実です。司教がただ臆病で言うべきことも言えないのであれば、同じく弱い人間として同情や理解もあるかもしれません。しかし中には公然と教皇を批判したり、信徒の不当な要求に理解を示して世間から[改革派][リベラル]などと賞賛されている司教も数人いるわけです。因みにフランクフルトを管轄するリンブルクの司教は、公然と教皇への忠誠を唱える数少ない司教の一人です。そのために今ではマスコミや反抗的な信徒によるありとあらゆる嫌がらせや誹謗中傷に晒されています。或いはテレビ座談会の席上で同性愛を批判したために、他の出席者から吊るし上げにあったり、ミサ中に顔にケーキをぶつけられた大司教などもいるほどです。これはベルギーでの事件で私は[ヴァチカンへの道]の最終号で書いた通りです。 このように社会の近代化と世俗化に伴って、キリスト教的な価値基準、倫理観そのものが効力を失い、逆に同性愛結婚と彼等の養子縁組の完全な自由化政策が政治家により強力に推進され、これが寛容、男女平等に生きる近代人の象徴として謳歌されています。この風潮に異議や疑問を挟むことは極めて困難になりました。現在では歴史的に見てヨーロッパ社会の精神的な基礎がキリスト教であったことを公の場で言うことは、非常に困難になって来ました。これを口にすると直ちにキリスト教の独裁、或いは宗教的な差別主義者とされ、失脚した保守系政治家や意見を撤回した政治家もいるほどです。イギリスではある女性信徒が職場で自分の信条を口にしたために解雇された事件もありました。社会の全体的な雰囲気としてカトリック信徒であることを明確に表明しにくくなってきたことは、厳然たる事実です。 さらに信徒数が減り、司祭の数も減少したため、空き家同然となった教会が増えています。これは超教派で共通している現象です。人員の不足で閉鎖された修道院もあります。このような建物は、最終的には売却されて、レストランやスーパーマーケットに変身したり、イスラム教のモスクに改造された教会もあります。なかには教会や修道院の建物が世俗的な目的や他の宗教の施設に変容することを避けるために、建物そのものを完全に取り壊して跡を残さないようにするというケースもたくさんあります。問題は、残された信徒が教会閉鎖の事態を嘆くだけで、何故このような結果に追い込まれたのかについての反省の声がないことです。このような事態は、信徒が自ら招いた不幸でもあるという認識は余り見られません。 因みに私はここ数年間にフランスを訪れる機会が何度かありました。どの教会を見ても扉などに[信仰の年]に因み信徒のための公教要理の再勉強会や自覚を促すための集会などのビラやチラシが目に付き、全くのゼロから再出発しようという意識が明確に感じられました。ミサに出てもフランスでは若い世代の出席者はドイツよりも多いという印象を受けました。フランスでは憲法により政教分離の方針がドイツ以上に徹底していますので宗教は単なる個人の物という考えが浸透し、無宗教者、或いは無神論者の数もドイツを遥かに凌いでいますが、そのような状況の中で最近では司祭志願者がごく僅かながら増えてきたことも各方面から度々、聞いています。 しかしドイツの教会のこのような困難な状況の中でカトリック信徒のごく少数派とも言える人々は、教皇の指導に忠実に従いながら、教会の刷新と発展のために貢献しようと色々な努力をしています。因みにフランクフルトの聖バルトロメウス教会(俗称ドーム)では助任司祭の指導でごく数人(10人足らず)の人々が定期的に集まり、公共要理の復習を兼ねた勉強会を行い、教会の本質、秘跡とは何か、司祭職、ミサなどについて根本から話しを聞いて教会と信仰についての理解を再認識しようとしています。これは見解の異なる相手と議論したり、教会を去った人々を再び教会に戻すためには、まず自分自身の立場を精神的に強化させようという意識で始められた会合です。 最後に教会の刷新のためには、典礼の刷新が何よりも大切であると考える信徒もいますが、このような人々は教会内部からすら批判されることがあります。何故なら典礼を重視する人々は、ラテン語のミサを再導入したいと希望しているからです。しかも日頃、教皇への忠実を唱える信徒でもラテン語ミサには難色を示し、そっけない反応しか見せないことが多いようです。公会議以後、ミサはドイツ語一辺倒となり、ラテン語は廃止されたと思い込む層が圧倒的です。2007年にベネディクト16世が自主教令で公会議以前のミサ
─ 所謂トリエント・ミサードイツでは規定外特別ミサと言っています ─ を全面的に認めた時に、世間一般は勿論のこと教会内部でも[教皇はドイツ語のミサを禁止しようとしている。]などの勝手な噂が飛び交いました。この時になって初めてごく少数の司祭が[公会議の席上では、アジアのようなキリスト教布教国などでは現地の言葉でミサを行っても良いけれど、教会の公用語はあくまでラテン語であります。]と定めたのであって、ラテン語を廃止したのではないと言って、信徒の誤解を解こうとしました。しかしこの事実を認めたくない信徒はたくさんいます。 次にトリエント・ミサ ─ 規定外特別ミサ ─ についても私は[ヴァチカンへの道]57号と64号に書きましたが、圧倒数の信徒がこのミサに偏見を持っています。そんな訳でこのミサの再普及のために活躍する信徒グループ[Pro
Misa Tridentina]に対する風当たりは特に強く、教会内でも保守反動団体などとして、不信感の目で見られています。特にどの司教も2007年にベネディクト16世が自主教令を出して以来、このミサを容認こそしていますが、積極的な態度は決して示しません。このミサを露骨に拒み、関心を示す神学生を邪魔者扱いしたり、叙階を拒否する司教もいるという噂は今でも耐えません。フランクフルトを統括するリンブルクの司教も決してこの規定外特別に積極的とは言えない印象を受けていますが、これを妨害するようなことはしていませんので、それだけでも感謝するべきだと思っています。フランクフルトのある教会では毎週日曜日の夕方このミサが行なわれていますが、参加者の年齢は一般ミサよりも遥かに若い層が目立ちます。要するに青年層は意外にも伝統回帰であることが感じられます。このミサを[旧時代の遺物]などと言って軽蔑する信徒にはこの現実を見てほしいと思っています。 驚いたことにカトリック教会のために本当に献身しようという信徒にはプロテスタント教会から転向して来た人々が意外にも多いことを知りました。転向の動機を聞いてみるとカトリック教会のミサの荘厳さに感動したから、或いはプロテスタント教会の牧師が妻帯しているために家庭で問題を起こして離婚を何度も繰り返したりして、完全に世俗の生活にはまり込んでいる姿を見て嫌気がさした時に、カトリック教会に出会って真実の道を見出したから、というのが大半です。このような人々はカトリック教会がプロテスタント化する危険性を何よりも恐れると同時に、新しい教皇フランシスコが強い信仰と信念に支えられて、教会内外からの圧力に屈しない姿勢を貫き通すことを心から願っています。 ここまでで私はドイツの教会の現状は、教皇の指導から離反してでも教会を世間一般の時流に適応させるべきだ、と考える多数派信徒と、これに反対してあくまで教皇を筆頭にして、信仰の強化を通じて教会を発展させたい、という少数派に分かれていること、ついでラテン語のミサを巡っては少数派の信徒の中でも意見が一致していないことなどをごく簡単にお話ししました。近代化、自由化を口実に教会が世間の要求に全面的に応じるべきと考える多数の信徒と、この姿勢に断固反対して教皇の指導の下に信仰を強化して教会の発展を推進させようとする少数の信徒は、現状では相互非難をするのみで、まともな対話や意見交換はほぼ不可能なほどに対立しています。しかも殆どの司祭や司教は多数派信徒の強い圧力の前にたじろぐのみで、ダメなことはダメとはっきり物を言うことが出来ずにいます。信徒の教会離脱や分裂を恐れるあまり、彼等の要求を受け入れようなどという司教や司祭もいるほどです。そんな訳でせっかくの [信仰の年]ではありますが、なかなかドイツではそれが軌道に乗らないのは当然かもしれません。 私は教会に不当な要求を出す人々を冷たく追い出したり、或いはドイツ司教団のように[お話し合いを致しましょう。]などと言って結局は時間稼ぎをするのみで、うやむやに終わらせようとする姿勢は全く逆効果だと考えています。女性司祭や司祭の結婚、信徒による司教選挙、或いは信徒がミサを挙げる権利などの要求が何故不当であるのかを何度でも辛抱強く話して、教会とは何かについて深く悟らせるように努力する以外に道はないような気がします。 但し様々な見解の相違を超えて全ての人々に共通している期待は、新しい教皇がヴァチカンの組織改革と徹底的な浄化作業に取り組まれることです。ヴァチカン銀行の資金洗浄問題、教皇庁勤めの枢機卿とマフィアの絡み合い、ある特定の政治家との結びつき、司祭の性暴力事件を隠蔽しようとした枢機卿の態度など様々な問題が解決されていなかったために、去年、教皇の側近による秘密文書漏洩事件などの不名誉な事件が起こったわけです。真相は未だに謎に包まれています。ヴァチカンという中央機構を抜本的に洗浄しなければ、教会の名誉回復には繋がらないことは誰しもが認める事実です。 遠く離れた日本のカトリック教会では過去に人格、能力ともに秀でたヨーロッパ各国の宣教師がたくさんいました。その方々の影響や精神的な重みはいまだに深く心の中に刻まれていることは、年配の信徒の方々に接するとありありと感じます。しかしこのような宣教師の世代は過去のものとなり、現在のドイツでは海外への宣教どころではありません。[宣教]という語句を使ったとたんに植民地政策と同列視して、犯罪だという声すら聞こえてくるほどで、このような意見は教会内部にもあります。 私は、日本のカトリック教会が近代化などと称して西欧の教会を無批判に見倣うような事態にならないことをひたすら願っています。日本もドイツのようにプロテスタント教会が多数あり、他の宗教もあります。そのために平和と寛容という精神は一番大切だと思いますが、道を誤ると単なる相対主義に堕してしまう危険性は強いと思います。そこで日本のカトリック教会は、他宗派や他宗教との友好関係を保持しながらも常にカトリック教会としての姿勢、立場を明確に示して、逆に低迷するヨーロッパの教会に刺激を与えるまでに発展してほしいと心から願っています。 お聞き苦しい点もたくさんあったと思いますが、どうもご清聴有難うございました。 (2013年4月13日 於・大船カトリック教会) 講演後の会食の席にて |
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