ドイツや周辺諸国の教会事情

Atsuko Lenarz
(ドイツ Offenbach am Main 在住)

2013.4.13
カトリック大船教会・信徒集会室において


  今日は皆様お忙しい中、わざわざお集まり下さいまして、本当に有難うございました。特にこの会を準備して下さった野村様には心から感謝申し上げます。

  私は既に30年以上ドイツに住んでおります。この数年来、頼まれてドイツのカトリック教会の成人講座などで日本の宗教と教会の事情 ─ 日本人の一般的な宗教観、相対主義的な日本の精神風土、カトリック教会について ─ ザヴィエル到来からの歴史と現状 ─ 日本人一般のキリスト教観或いは理解度、認識度などについてごく基礎的な話題を中心に一年に1-2回程度ですが、講演しております。何故なら宗教的な面から見た日本の姿はドイツで殆ど知られていないために、日本人は仏教信徒か神道の信徒に決まっているという発想が中心です。日本にキリスト教徒がいるのか、教会もあるのか、などの質問はざらにあります。こんな訳でせめて日本の教会も世界教会の一部であり、全くの少数者ではあっても教会のために日夜頑張っているという姿勢をドイツ人に紹介したいのが講演の目的です。

  今日は逆にドイツの教会事情を私の知り得た範囲内でごく僅かですが、個人的な意見も少し交えてお話しさせて頂きたいと思います。私は「ヴァチカンへの道」57号からドイツを中心にした教会事情を色々と発表させて頂きましたので、皆様は大体の状況についてもうご存知だと思います。
  一口に言ってドイツのカトリック教会は、極めて厳しい現実に直面しています。新しい教皇フランシスコのご指導に忠実に従って司教団がよほどしっかりした舵取りをしないと、教会は分裂する危険すら孕んでいます。既に分裂しているという意見すら頻繁に聞かれます。
  長らく停滞していたカトリック教会の威信の低下を決定的にしたのは、特に2010年です。この年はドイツのカトリック教会にとっては最悪の年でした。本件については[ヴァチカンへの道]62号と63号で書きましたが、アイルランドのカトリック教会で司祭が長年に渡って青少年に性暴力を奮っていたという事件が明るみになったのが発端で、ドイツでも過去数十年に及んで司祭(教区司祭、修道司祭)が慢性的に教会や学校の青少年に性暴力を奮っていた事件と、これを特に50-80年代ぐらいまでの司教団がひた隠しにしただけで、まともな対策を講
じなかったとして、カトリック教会は毎日のニュースで激しい嵐のような勢いで非難されました。
  それ以来、現在の司教団は真相の追究、被害者への金銭的な補償、今後の予防措置などに関して一般社会(心理学者、警察など)と連絡を密にしながら名誉回復のために必死の努力をしています。[この問題で弁護の余地はない。]として前教皇ベネディクト16世の態度も司教団に対して極めて厳しいものでした。一方プロテスタント教会や一般の学校、各種のクラブなどでも同様の事件が次々と発覚して、その件数はカトリック教会での件数を遥かに凌ぐというのに、マスコミの対応は比較的甘く、カトリック教会叩きだけが一方的に行われ、ありとあらゆる言葉を使って教皇を現在に至るまで最高責任者と見做して譴責しています。
  この事件を機にカトリック信徒の教会離れも加速化しました。従来、教会離脱者は年間10-12万人程度でしたが2010年は、18万人以上で過去最大数になりました。今まではプロテスタント教会の離脱者の方が多かったが、この年は初めてカトリック教会離脱者の数はプロテスタント教会離脱者の数を上回りました。

  ヨーロッパ諸国には由緒ある古い歴史的な教会や芸術的にすばらしい価値のある教会がたくさんあります。そのためにヨーロッパは皆、熱心なキリスト教国であると想像する旅行者や日本人は多いと思います。しかしこれは過去の話しでしかありません。ドイツ司教団は既にドイツはもはやキリスト教国ではなく、布教の対象国であると言明しております。ちなみに現在のドイツの全人口の29.9%がカトリック信徒であり、プロテスタント諸派の信徒は29.2%、東方正教会の信徒は2%程度になります。若年層でいずれかの教会所属者は30%以下となっています。
  次にイスラム教徒が5%ほどですが、これは主としてトルコ、北アフリカからの移民としてドイツ国籍を取得した人々です。ドイツ人のイスラム教改宗者の数は、4000人以上とされていますが、正確な数は不詳です。
  これに対して無宗教者や無神論者の32~37%を占め、特に旧東独地域では住民の65~80%が全く宗教とは無関係な生活を送っています。
  それ以外では新興宗教も勢いを増し、日本の創価学会や真如苑なども地道な活動をしています。もう10年以上も前のことですが、ドイツの創価学会の信徒に会ったことがありますが、入会の動機は[教会に満足していなかったから。]とのことでした。要するにキリスト教とは無関係のドイツ人が激増していると言えます。

  次に30%には満たないカトリック信徒の実態についてある調査機関が昨年秋にカトリック信徒を対象に行なった調査の結果によると、ミサに定期的に出席するのは、12%程度に過ぎず、大部分の信徒は洗礼、冠婚葬祭、初聖体など人生の節目となる行事、後はクリスマス、復活祭などの大祝日などに教会に出入りするだけということが判明しました。しかもキリスト教の教義、信仰内容を確実に信じると表明した信者は、半数以下でした。この発表結果にドイツ司教団は愕然としましたが、洗礼を受けたのみで後は全く教会とは無関係、キリスト教についての知識も皆無という人々を私は自分の周囲でたくさん見て来ましたので、このような結果を見ても別に驚いておりません。

  教会に行かなくなった信徒や正式に離脱した人々の言い分は、[司祭の態度は権威的だ。]或いは[教会が民主的ではない。]というのが大部分です。しかしこの人々の意見をじっと聞いて感じるのは、信徒が司祭と全く対等の関係になりたいと希望していること、ミサは信徒同士の共同集会と晩餐であると考えていることです。
  さらに私の推測ですが信徒の教会離れのもう一つの原因として、司祭がミサをマンネリ化させて、後は洗礼と冠婚葬祭を機械的に行うのみで、信徒に精神的な喜び、或いは模範的な態度を見せなかった場合も多かったと思います。信徒が世俗社会に影響された結果、色々な疑問を教会に対して抱いたり、これを司祭に質問しても、納得ある答えを得られずに失望して教会から遠ざかった人が非常に多かったのは確かです。

  調査の結果、教会と縁を切った信徒と、不満を抱きながらも教会に残っている信徒の両方が現在の教会を時代遅れと見做していることが判明しました。その具体例として慢性的に指摘されるのは、女性が司祭職に就けないために、教会は女性差別の団体と思い込んでいること、司祭の独身制及び同性結婚に対する教会の態度は人権抑圧であると思っていることなどです。しかも教会の停滞と不振は、信徒の希望や意見を受け入れない教皇の態度が原因であると考えている信徒が圧倒多数を占めて、同時にカトリック教会の教義にも自信が持てない信徒が半数以上であることが判明しました。
  但しこの世論調査の質問方法は最初からカトリック教会についての否定的な意見や回答を期待した意図的な調査、或いはカトリック教会と教皇批判を正統化するために意図的な調査が行なわれたのではないか、という批判もあります。しかしどのような機関が行った調査でも毎回、同様の結果が出ています。特に司祭の独身制を廃止せよ、という要求はきわめて強く現在では信徒の85%以上がこの意見です。
  司祭はキリストの代理者であるので、道を誤らない限り独身であるからこそ100%教会と信徒のために献身できるという認識は殆どありません。

  西ヨーロッパ諸国特にドイツでは、前教皇ベネディクト16世に対する反発感情が強く、[超保守主義者][時代逆行][人権と自由の敵]、[ヴァチカン公会議の裏切り者]などと決めつけて教皇が一言発する度に非難、批判を繰り返して来ました。特に教皇は[相対主義の独裁]について度々注意を促し、現代社会をキリスト教的な観点から影に日向に批判したために、常に攻撃の矢面に立たされていました。
  自国の出身者をこれほどまでに冷たく扱き下ろした国も珍しいかもしれません。
  教皇と教会批判が近代的な人間或いは知識人の基準であるとされているほどです。教皇の数々の発言に理解を示し、敬意を払うという姿勢は殆ど感じられませんでした。そのためにマスコミは教皇の辞任は自業自得、自らの敗北宣言或いは責任回避などと言う論調が主流でした。本件について欧米諸国の各種新聞の論調がドイツの新聞で紹介されましたが、北欧のある国の新聞は、次の教皇、つまりこの度の教皇フランシスコが古臭い伝統を廃止すると共に、カトリックの馬鹿げた教義も廃止するべきだとの論説まで発表しました。教皇の8年間の指導と労苦を正しく評価したのは私の知る限りではポーランドとロシアの保守系新聞だけでした。後は言いたい放題、書きたい放題で最後の最後まで教皇を冷たくこき下ろし、読むに耐えないような論評もたくさんありました。しかしカトリック信徒の側でも教会と教皇を無責任な誹謗・中傷、攻撃から守り、偏見や誤解を解こうという姿勢は殆ど見られませんでした。
  逆に東方正教会、イスラム教の学者、イスラエルや各国のユダヤ人団体の代表者などはベネディクト16世の努力のお蔭で宗教相互の関係が著しく改善され、友好関係を促進することが出来た、として一様に感謝の賛辞を述べました。またプロテスタント教会のごく一部の指導者も世俗社会の時流に屈服しない教皇の強い自覚と不動の精神を称賛しました。しかしこのようにカトリック教会以外の指導者が教皇に深く感謝したという事実をドイツのマスコミは完全に無視しました。
  今回も教皇選挙の前、さらには新しい教皇の決定後にテレビアナウンサーが信徒や政治家へのインタビューで[新しい教皇から何を期待しますか?]と聞くと、返事は[女性の司祭叙階、司祭の結婚許可]、[司祭と信徒を全く対等の関係にしてほしい。]などの希望が圧倒的でした。今まで信徒はヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の保守的な権威主義に苦しんだから、ラテン・アメリカ出身の新しい教皇ならば、教会も変化して民主化、近代化されるであろうという期待を述べるだけで、教皇の強い信仰によって教会を正しく指導してほしいなどの希望を表明した人はいませんでした。
  私はこのインタビューを見た時に思ったのは、信徒の多くが現状の教会に対して表明したこのような不平不満こそは、教会をただの多数決の原理で信徒の好みに応じるサービス機関であると思い込んでいる姿勢を露骨に反映したものではないかということです。教会と教皇は何を基準に存在しているのか、司祭と信徒の相違は何か、などの意識は全くなく、信徒の要望を叶えるのが教会の務めであると考えているようです。
  ドイツではこのような信徒を統括する機関として[ドイツ・カトリック信徒中央委員会]が圧倒的な影響力を奮っており、ここにはカトリック信徒の政治家も多く参加して幅をきかせています。 さらに過激な不満分子は、[我等は教会]或いは[下からの教会]などの運動を組織して、教会改革、民主化運動と称して、マスコミの支持を大幅に受けています。新聞、テレビなどもこの人々のみを[改革を望む信徒の切実な声]として紹介し、大半の信徒から意識的にも無意識的にも支持されているのが現実です。

  50年前の第二ヴァチカン公会議は信仰の刷新を図り、現代世界に生きる全ての人々に救済と希望の光を照らすために開催されたはずでしたが、各地のカトリック教会は公会議の歌い文句であったaggiornamento(時代への適応、革新・現代化の意)の語を歪曲したため、結果的には教皇の本意とはかけ離れて正統な教会の路線から大幅に逸脱してしまった、ということが今頃になって方々から指摘されるようになりました。それだからこそ昨年10月11日から始まった[信仰の年]に際して、教皇ベネディクト16世は信仰心の刷新と自覚が教会の真の発展の第一歩であると主張しました。それに対して、ドイツのカトリック信徒の大半や世論は女性司祭、司祭の独身制の廃止、同性愛結婚の容認こそが教会の民主化と近代化の第一歩であると叫び、この要求を認めない限り、教会は世界から取り残され孤立してしまうであろう、と主張しています。このような人々を観察していると、信仰の強化と自覚、教義の理解、または宣教の使命などの基本的精神には全く関心がないようで、最初から教皇の姿勢とは全く平行線を辿るのみで、接点がありません。

  一方、ヨーロッパ諸国、特にドイツでは人口減少と信徒の教会離れに伴い社会は世俗化し、脱キリスト教化、非キリスト教化に拍車がかけられています。残った司祭は高齢化し、司祭志願者の数も減少しているのを嘆く声は至る所で聞こえて来ます。しかし[司祭不足]という言葉と同時に出る意見は、女性の司祭叙階や司祭の独身制廃止、さらには一般信徒にもミサを司式する資格と権利があるということです。このような要求を振りかざして最近ではオーストリアで教皇に対する不服従を呼びかける司祭連合会が結成されましたが、発起人(ヴィーン在住の司祭)の言い分は、[プロテスタント教会で許されていることを、なぜカトリック教会は出来ないのか。]ということです。これに対して私は[何故カトリック教会は、プロテスタント教会の真似をしなければいけないのか。]と聞きたい思いです。いずれにしても会の発起人はこの運動を国際的な規模で広げたいと大いに張り切っています。これに呼応してドイツ、スイス、フランスでも類似した会が成立し、信徒やマスコミの支持も受けています。
 
要するに意識的にも無意識的にもカトリック教会をプロテスタント化させようとしていることは誰の目から見ても明らかなことです。しかしプロテスタント教会では牧師が何度も離婚して家庭内に悲劇を生み出すケースも多く、しかも信仰に纏わることまでも信徒が民主主義による多数決原理で決定しようとしているために、もはや正統なキリスト教会とは言えない状況に落ち込み、カトリック教会以上に低迷しているという現実には一切、目を向けようとしません。そのために[司祭不足の危機は信仰の危機が原因である。]という教皇の言葉に耳を貸そうとする気配は感じられません。これに対してアフリカの諸国などからはドイツで神学を学んだ司祭も多いので、ドイツの教会援助のために司祭を派遣するから、という申し出でもありますが、[ドイツ語力の不十分な外国人にドイツ人の気持ちなど理解できるはずがない。]或いは[絶対に外人司祭は受け入れたくない、そんなことなら女性司祭の方が良い。]などと言う信徒もたくさんいるほどです。

  しかもカトリックの政治家 ─ 殆どが先ほど触れた[ドイツ・カトリック信徒中央委員会]の幹部ですがカトリック教会の民主化、自由化と称して[女性司祭の導入と司祭の結婚、同性愛の容認]を受け入れるように数年前からドイツ司教団に度々迫っています。このように政治家が教会に介入するのは、日本では見られない現象ではないでしょうか。ドイツでは政治、経済、環境問題、不法滞在している移民の対処などに関して個人的に政治を批判する司教もいますが、司教団として純政治問題に関する声明を公に出すことはめったにありません。逆に政治家の側からのカトリック教会への介入、干渉は露骨に行われ、これに対する批判はありません。なぜならこのような政治家は、マスコミの宣伝に踊らされてカトリック教会とは保守・反動の圧力団体、排他的な秘密結社集団、女性差別と人権抑圧団体などと思い込む世間或いは選挙民の支持があることをよく知っているからです。

  このような状況で就任した新しいフランシスコ教皇は、[伝統に囚われない教皇]或いは[庶民的で親しみ易い教皇]などとして今のところではドイツでも非常に好評ですが、この教皇が各種の不当な要求などには譲歩しない姿勢であることが判明した場合には、直ちに前教皇ベネディクト16世同様に非難、攻撃に晒されることは一目瞭然のことです。

  一方、社会そのものの非キリスト教化が意識的にも無意識的にも進められていますので、キリスト教や教会についての無知識の度合いは日本人の想像を遥かに超えることがあります。聖書は子供のお伽話と言い切る大人、そして日本と同様にクリスマスは贈り物を交換する日に過ぎない、などと思う人々も激増しています。
  またかつてのヨーロッパ各国では十字架が道路、橋、山の上、裁判所、病院、学校等到るところにありましたが、このように公共の場にある十字架が今や人権侵害、憲法違反などとして無宗教の市民や人権団体から訴えられるのは頻繁です。或いは教会の鳴らす鐘の音が町の騒音防止条例に違反するとしてこれを訴える市民団体や政治家もいます。時には教会の内部が何者かによって荒らされたり、ひどい場合にはオーストリアとドイツのある町でミサそのものがフェミニストなどのデモ隊などに襲われて一時的に中断を余儀なくされたということもありました。しかしこのようなニュースをマスコミは殆ど報道しません。

  次の問題は、このように教会が内部から侵食され、外部からも不当な攻撃や誤解を受けているというのに、司教団が中途半端な態度しか取れないことです。一般世論或いは教会内の多数派に逆らって教会としてのあるべき態度を表明したり、教皇への忠実な姿勢を見せるとマスコミや左翼系の政治家の総攻撃にあい、これに耐える司教は皆無に近いというのが現実です。司教がただ臆病で言うべきことも言えないのであれば、同じく弱い人間として同情や理解もあるかもしれません。しかし中には公然と教皇を批判したり、信徒の不当な要求に理解を示して世間から[改革派][リベラル]などと賞賛されている司教も数人いるわけです。因みにフランクフルトを管轄するリンブルクの司教は、公然と教皇への忠誠を唱える数少ない司教の一人です。そのために今ではマスコミや反抗的な信徒によるありとあらゆる嫌がらせや誹謗中傷に晒されています。或いはテレビ座談会の席上で同性愛を批判したために、他の出席者から吊るし上げにあったり、ミサ中に顔にケーキをぶつけられた大司教などもいるほどです。これはベルギーでの事件で私は[ヴァチカンへの道]の最終号で書いた通りです。

  このように社会の近代化と世俗化に伴って、キリスト教的な価値基準、倫理観そのものが効力を失い、逆に同性愛結婚と彼等の養子縁組の完全な自由化政策が政治家により強力に推進され、これが寛容、男女平等に生きる近代人の象徴として謳歌されています。この風潮に異議や疑問を挟むことは極めて困難になりました。現在では歴史的に見てヨーロッパ社会の精神的な基礎がキリスト教であったことを公の場で言うことは、非常に困難になって来ました。これを口にすると直ちにキリスト教の独裁、或いは宗教的な差別主義者とされ、失脚した保守系政治家や意見を撤回した政治家もいるほどです。イギリスではある女性信徒が職場で自分の信条を口にしたために解雇された事件もありました。社会の全体的な雰囲気としてカトリック信徒であることを明確に表明しにくくなってきたことは、厳然たる事実です。

  さらに信徒数が減り、司祭の数も減少したため、空き家同然となった教会が増えています。これは超教派で共通している現象です。人員の不足で閉鎖された修道院もあります。このような建物は、最終的には売却されて、レストランやスーパーマーケットに変身したり、イスラム教のモスクに改造された教会もあります。なかには教会や修道院の建物が世俗的な目的や他の宗教の施設に変容することを避けるために、建物そのものを完全に取り壊して跡を残さないようにするというケースもたくさんあります。問題は、残された信徒が教会閉鎖の事態を嘆くだけで、何故このような結果に追い込まれたのかについての反省の声がないことです。このような事態は、信徒が自ら招いた不幸でもあるという認識は余り見られません。

  因みに私はここ数年間にフランスを訪れる機会が何度かありました。どの教会を見ても扉などに[信仰の年]に因み信徒のための公教要理の再勉強会や自覚を促すための集会などのビラやチラシが目に付き、全くのゼロから再出発しようという意識が明確に感じられました。ミサに出てもフランスでは若い世代の出席者はドイツよりも多いという印象を受けました。フランスでは憲法により政教分離の方針がドイツ以上に徹底していますので宗教は単なる個人の物という考えが浸透し、無宗教者、或いは無神論者の数もドイツを遥かに凌いでいますが、そのような状況の中で最近では司祭志願者がごく僅かながら増えてきたことも各方面から度々、聞いています。
  このように教会を全くのゼロから再出発させて、信仰の年に相応しく信仰心の刷新、信徒としての自覚を向上させようという雰囲気は現在のドイツでは余り感じられません。司祭もこれについて余り話しをしていません。

  しかしドイツの教会のこのような困難な状況の中でカトリック信徒のごく少数派とも言える人々は、教皇の指導に忠実に従いながら、教会の刷新と発展のために貢献しようと色々な努力をしています。因みにフランクフルトの聖バルトロメウス教会(俗称ドーム)では助任司祭の指導でごく数人(10人足らず)の人々が定期的に集まり、公共要理の復習を兼ねた勉強会を行い、教会の本質、秘跡とは何か、司祭職、ミサなどについて根本から話しを聞いて教会と信仰についての理解を再認識しようとしています。これは見解の異なる相手と議論したり、教会を去った人々を再び教会に戻すためには、まず自分自身の立場を精神的に強化させようという意識で始められた会合です。
  しかしごく少数の信徒を除くと、信徒同士でも教会の諸問題について本心から打ち解けて話すことは難しくて、教皇の言葉に理解を示したとたんに会話が途絶えたり、大論争になってしまうことも良くあります。司祭と言えどもどこまで教会と教皇に忠実な姿勢を貫いて、信頼に値する人物なのか、不信感に陥ることは頻繁にあります。特に第二ヴァチカン公会議を体験した世代の司祭 ─ 中高年層かそれ以上の司祭が多いのですが ─ に限って、教会への不平不満を露骨にすることが多いようです。逆に若い世代の司祭ほど世間の時流に逆らって、教会と教皇に忠実に従おうという強い覚悟のほどが感じられます。ある若手司祭の話しによると、神学生の時代に[教皇への忠誠]を表明したために、神学校の教授などから嫌がらせを受け、仲間はずれにされたこともあり、散々な思いをして漸く司祭になったということで、それだけに自覚も意志も強いようです。このような若手司祭の態度はまず服装に表れてきます。今迄は外見では一般の人々と全く変わりない服装、或いはそれ以上の奇抜な服装をした司祭が多かったのですが、最近は若い世代を中心にいつも黒の服を着る司祭が増えて来ました。外見の服装だけで人間を判断するべきではありませんが、やはり司祭に相応しい服装で人前に立って、教会と教皇への忠実をはっきりと表明する態度こそが、信徒の心に信頼感を起こさせる第一歩ではないかと思っています。世間の時流やマスコミなどの攻撃から教会を守ろうとする少数の信徒は、司祭の数を重視するよりも、やはり現在活躍している司祭と今後誕生するであろう数少ない司祭の質の方が遥かに大切であるという認識をしています。
  例えば昨年、旅行先で訪れた教会で聞いた若い司祭の説教は、教皇の言葉に率直に耳を傾けることがいかに大切であるのかを訴え、左翼系メディアや政治家が幅を利かせている時流に迎合することの危険性を指摘しながらも、決して露骨な政治批判に走ることはありませんでした。数人の信徒がこの司祭の説教に抗議して途中で席を立って出て行きましたが、この司祭は全く動揺しませんでした。信徒の反発を恐れて意味不明、あるいはどちらつかずの曖昧な説教をする司祭や司教が多い中、この司祭は非常に勇気ある態度を示したと私は思いました。
  このように信仰を刷新して教会の名誉回復と再出発のために献身しようとする信徒は色々な団体を組織しています。例えば[カトリック信徒フォーラム]については[ヴァチカンへの道]60号でご紹介しましたが、これは現状の教会と大多数の信徒の姿勢に不満を感じた有志が集まって組織した団体で、毎年総会を開いては優れた講師による講演や公開討論を行って、カトリック教会が内外から大幅に侵食されているという危機性を訴えて、信徒の意識を高めるように啓発しています。ここにはスイスやオーストリアからも一般の参加者や講師がやって来ます。
  また[危機に立つ教会]は教皇庁の公認団体として[カトリック信徒フォーラム]と密接な関係を持ちながら主に世界各地要するにイスラム教の国々、中国、北朝鮮などで迫害されているキリスト教徒各派の信徒の窮状を訴えて、信仰の自由を実現させるために尽力しています。同時に現在ではヨーロッパやアメリカでもキリスト教徒特にカトリック信徒に対する各種の妨害や嫌がらせが増えているために、迫害はもはや他人事ではないことを信徒に自覚させようとしています。
  他にも[長い物に巻かれろ]式の多数派信徒に警告を発し、マスコミの反教会宣伝に惑わされずに教会の名誉回復と再生のために団結するように呼びかける運動は幾つがあります。但しこのような少数の人々が組織するこの種の団体は、マスコミや大多数の信徒の注目を引くことはなく、単に超保守主義者の集団として殆ど相手にされないというのが現状です。そのためにはこのような同じ趣旨の団体を早期に統合して、団結してその存在を明確に世間に示すことが必要であると思っています。

  最後に教会の刷新のためには、典礼の刷新が何よりも大切であると考える信徒もいますが、このような人々は教会内部からすら批判されることがあります。何故なら典礼を重視する人々は、ラテン語のミサを再導入したいと希望しているからです。しかも日頃、教皇への忠実を唱える信徒でもラテン語ミサには難色を示し、そっけない反応しか見せないことが多いようです。公会議以後、ミサはドイツ語一辺倒となり、ラテン語は廃止されたと思い込む層が圧倒的です。2007年にベネディクト16世が自主教令で公会議以前のミサ ─ 所謂トリエント・ミサードイツでは規定外特別ミサと言っています ─ を全面的に認めた時に、世間一般は勿論のこと教会内部でも[教皇はドイツ語のミサを禁止しようとしている。]などの勝手な噂が飛び交いました。この時になって初めてごく少数の司祭が[公会議の席上では、アジアのようなキリスト教布教国などでは現地の言葉でミサを行っても良いけれど、教会の公用語はあくまでラテン語であります。]と定めたのであって、ラテン語を廃止したのではないと言って、信徒の誤解を解こうとしました。しかしこの事実を認めたくない信徒はたくさんいます。
  ある若手司祭は、[カトリック教会のミサは全世界に共通のものであるので、典礼の言葉も教会の公用語であるラテン語を用いるべきだと考えているが、ドイツ人は自国語のミサに甘んじてすっかり怠慢になってしまいました。]と言ったことがありますが、これはドイツ人だけに限ったことではないでしょうね? 
2-3年前からフランクフルトのドームでは多数の信徒の反対を押し切って一月に一回、ラテン語による現行ミサを行なっています。但し聖書朗読を除いて最初からラテン語で通す司祭もあれば、説教後に初めてラテン語に代わる司祭もあり様々です。忘れていたラテン語のミサを思い出して嬉しい、という人も徐々に増えて来ましたが、このミサに不満を述べる信徒がまだ多いことも事実です。
  他の地域の事情については良く知りませんが、去年旅行先で訪れた教会では毎週日曜日の10時にラテン語の現行ミサがあり、参加者は様々な年齢層でした。特に都会などではミサの参加者も国際化していますので、行った先の国の言葉が判らなくてもラテン語のミサを弁えていれば、国籍を問わず参加者はせめて教会の中だけでもラテン語という共通の言葉でカトリック ─ 普遍性 ─ の意味をよく噛みしめることが出来るのではないかと思います。ドイツで感じることですが、ドイツ人信徒は自国語ミサだけに埋没した結果、カトリックという普遍的精神を忘れて、プロテスタント教会のように自国のみが中心という狭い精神に転落してしまったように思えます。教皇に忠実に従いたいと言いながらも、ラテン語のミサには強い偏見を持つ信徒もカトリック教会が国際な性格であることを再認識して、その表れがラテン語ミサであることに気が付いてほしい、と願っています。

  次にトリエント・ミサ ─ 規定外特別ミサ ─ についても私は[ヴァチカンへの道]57号と64号に書きましたが、圧倒数の信徒がこのミサに偏見を持っています。そんな訳でこのミサの再普及のために活躍する信徒グループ[Pro Misa Tridentina]に対する風当たりは特に強く、教会内でも保守反動団体などとして、不信感の目で見られています。特にどの司教も2007年にベネディクト16世が自主教令を出して以来、このミサを容認こそしていますが、積極的な態度は決して示しません。このミサを露骨に拒み、関心を示す神学生を邪魔者扱いしたり、叙階を拒否する司教もいるという噂は今でも耐えません。フランクフルトを統括するリンブルクの司教も決してこの規定外特別に積極的とは言えない印象を受けていますが、これを妨害するようなことはしていませんので、それだけでも感謝するべきだと思っています。フランクフルトのある教会では毎週日曜日の夕方このミサが行なわれていますが、参加者の年齢は一般ミサよりも遥かに若い層が目立ちます。要するに青年層は意外にも伝統回帰であることが感じられます。このミサを[旧時代の遺物]などと言って軽蔑する信徒にはこの現実を見てほしいと思っています。
  このミサを推進している司祭の団体があります。それがペトロ兄弟会とフィリップ・ネリ学院といいます。両方の会員は教皇庁から破門されたルフェーヴル大司教が組織していたピウス10世会(ピウス兄弟会)から分離して、トリエント・ミサを行うと同時に教皇への忠誠を誓った団体です。特に1988年に創立されたペトロ兄弟会は、南ドイツとアメリカに司祭の養成所を置いて今や国際的な団体に発展し、ここでは司祭志願者も増えています。またフィリップ・ネリ学院は2003年に創立されたベルリンを中心にした運動です。いずれも平均年齢は30代で極めて若く、正しい典礼を通じて信仰心と教会への忠誠を鼓舞しようとする人々です。この二つの会とコンタクトを取ってこの規定外特別ミサを学ぼうとする若い司祭もいます。
  私は[ヴァチカンへの道]64号であるプロテスタント教会の牧師がフランクフルトでトリエント・ミサを見学して非常に感動したという件をご紹介しました。徒らにカトリック教会をプロテスタント化させることの愚かしさを知る意味で、私はこの牧師の感想をぜひぜひ司祭や信徒に読んでもらいたいと願っています。

  驚いたことにカトリック教会のために本当に献身しようという信徒にはプロテスタント教会から転向して来た人々が意外にも多いことを知りました。転向の動機を聞いてみるとカトリック教会のミサの荘厳さに感動したから、或いはプロテスタント教会の牧師が妻帯しているために家庭で問題を起こして離婚を何度も繰り返したりして、完全に世俗の生活にはまり込んでいる姿を見て嫌気がさした時に、カトリック教会に出会って真実の道を見出したから、というのが大半です。このような人々はカトリック教会がプロテスタント化する危険性を何よりも恐れると同時に、新しい教皇フランシスコが強い信仰と信念に支えられて、教会内外からの圧力に屈しない姿勢を貫き通すことを心から願っています。

  ここまでで私はドイツの教会の現状は、教皇の指導から離反してでも教会を世間一般の時流に適応させるべきだ、と考える多数派信徒と、これに反対してあくまで教皇を筆頭にして、信仰の強化を通じて教会を発展させたい、という少数派に分かれていること、ついでラテン語のミサを巡っては少数派の信徒の中でも意見が一致していないことなどをごく簡単にお話ししました。近代化、自由化を口実に教会が世間の要求に全面的に応じるべきと考える多数の信徒と、この姿勢に断固反対して教皇の指導の下に信仰を強化して教会の発展を推進させようとする少数の信徒は、現状では相互非難をするのみで、まともな対話や意見交換はほぼ不可能なほどに対立しています。しかも殆どの司祭や司教は多数派信徒の強い圧力の前にたじろぐのみで、ダメなことはダメとはっきり物を言うことが出来ずにいます。信徒の教会離脱や分裂を恐れるあまり、彼等の要求を受け入れようなどという司教や司祭もいるほどです。そんな訳でせっかくの [信仰の年]ではありますが、なかなかドイツではそれが軌道に乗らないのは当然かもしれません。

  私は教会に不当な要求を出す人々を冷たく追い出したり、或いはドイツ司教団のように[お話し合いを致しましょう。]などと言って結局は時間稼ぎをするのみで、うやむやに終わらせようとする姿勢は全く逆効果だと考えています。女性司祭や司祭の結婚、信徒による司教選挙、或いは信徒がミサを挙げる権利などの要求が何故不当であるのかを何度でも辛抱強く話して、教会とは何かについて深く悟らせるように努力する以外に道はないような気がします。

  但し様々な見解の相違を超えて全ての人々に共通している期待は、新しい教皇がヴァチカンの組織改革と徹底的な浄化作業に取り組まれることです。ヴァチカン銀行の資金洗浄問題、教皇庁勤めの枢機卿とマフィアの絡み合い、ある特定の政治家との結びつき、司祭の性暴力事件を隠蔽しようとした枢機卿の態度など様々な問題が解決されていなかったために、去年、教皇の側近による秘密文書漏洩事件などの不名誉な事件が起こったわけです。真相は未だに謎に包まれています。ヴァチカンという中央機構を抜本的に洗浄しなければ、教会の名誉回復には繋がらないことは誰しもが認める事実です。

  遠く離れた日本のカトリック教会では過去に人格、能力ともに秀でたヨーロッパ各国の宣教師がたくさんいました。その方々の影響や精神的な重みはいまだに深く心の中に刻まれていることは、年配の信徒の方々に接するとありありと感じます。しかしこのような宣教師の世代は過去のものとなり、現在のドイツでは海外への宣教どころではありません。[宣教]という語句を使ったとたんに植民地政策と同列視して、犯罪だという声すら聞こえてくるほどで、このような意見は教会内部にもあります。
  そんな訳で[ドイツは有数なキリスト教国]のイメージが強く残る日本で、ドイツの教会の厳しい現状と、これをなんとか克服してカトリック教会を正しい軌道に修正しようとする少数の信徒の活動や意識などを少しでも知って頂きたい、という願いを込めて今日は僅かながら話しをさせて頂きました。

  私は、日本のカトリック教会が近代化などと称して西欧の教会を無批判に見倣うような事態にならないことをひたすら願っています。日本もドイツのようにプロテスタント教会が多数あり、他の宗教もあります。そのために平和と寛容という精神は一番大切だと思いますが、道を誤ると単なる相対主義に堕してしまう危険性は強いと思います。そこで日本のカトリック教会は、他宗派や他宗教との友好関係を保持しながらも常にカトリック教会としての姿勢、立場を明確に示して、逆に低迷するヨーロッパの教会に刺激を与えるまでに発展してほしいと心から願っています。

  お聞き苦しい点もたくさんあったと思いますが、どうもご清聴有難うございました。

(2013年4月13日 於・大船カトリック教会)

講演後の会食の席にて

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