教皇ヨハネ23世が目指したもの

2015年8月       青  山    玄


はじめに

  去る7月23日に大阪・梅田教会のサクラ・ファミリアで話した1時間半の講演文を、話しながら感じた二、三の説明不足を補足した上で、そのまま『ヴァチカンの道』の読者に提供したい。公会議に積極的に協力した神学者たちの多くは公会議後のカトリック教会には批判的になったという話を聞いたことがあるが、その理由について読者なりに考えて、終末期を迎えていると思われる現代社会に生きるための、何かのご参考にして戴けたら嬉しい。


公会議開催の要因となったアフリカ教会の変化と布教学の新しい動向

  私は第二ヴァチカン公会議開催の一つの大きな要因は、第二次世界大戦後のアフリカの教会の変化だと思います。1950年代のアフリカではイスラム教の進出が目覚しく、アフリカ各地のキリスト教信徒団は、何千万人か知りませんが、次々とイスラム教徒に集団改宗したのですから。そのショックは、カトリック教会全体にとっても、非常に大きかったと思います。当時カトリック教会を統治しておられた年老いた教皇ピオ12世は、アフリカ諸国のこのような新しい動向に対して、世界各地に度々出現しておられた聖母マリアからのメッセージに従い、聖母に祈ることやロザリオを唱えることなどにより、この危機を乗り切ろうとなされたようです。教皇は1950年11月1日に使徒教令”Magnificentissimus Deus”を出して荘厳に聖母の被昇天を信仰箇条として宣言したり、53年12月8日からの一年間を聖母の無原罪信仰宣言の百周年を記念する聖母聖年にしたりして聖母崇敬を頻りに奨励したので、この頃から新たにMariologia(聖母学)が盛んになりましたが、同時にアフリカでの宣教活動の失敗からこれまでのカトリック宣教のやり方を根本的に見直す動きもあって、私がローマのグレゴリアナ大学で学んでいた60年前後には、そこの布教学部で学ぶ学生たちが少なくありませんでした。

  当時西欧の布教学者たちの間では、主キリストが新約の教会を創立なさった時の原点に立ち帰って、宣教活動を見直そうとする動きが広まっていたようです。主は、聖書研究と民衆教育に熱心であったファリサイ派から使徒をお選びになったのではなく、無学な労働者たちの中からその使徒を呼び集めておられます。そしてその使徒たちを世界に向けて派遣なさる前に、御自ら僕の姿になって使徒たちの足を洗い、「主であり師である私があなた達の足を洗ったように」、あなたたちも僕となって下から人々に奉仕するようお命じになりました。ファリサイ派のように聖書の真理を研究し、自分の理解した真理を人々に、神の権威に基づいて上から教えるのではなく、万民に奉仕する主キリストの愛を実践しながら福音の精神を伝えるのが、多様化しつつある現代社会に福音を広める道ではないのかというような考えが、60年前後頃の一部の布教学者たちの間に囁かれていました。

  私はそのローマで、長年の宣教活動で無数のアフリカ人をカトリック信者にした後に、イスラム教への信者たちの集団改宗を体験してアフリカの植民地から追放された一人の宣教師に会ってその話を聞きました。その人は私に、「私たちは全ての真理を正しく教え、アフリカ人たちはそれをよく理解して、神に本当に美しい立派な祈りや宗教祭儀を捧げていました」と、かなり詳しくアフリカ信徒団の集団棄教について話してくれました。私はそれを聞いて、アフリカ人たちにカトリックの教理を正しく理解させ、掟や典礼などを立派に遵守させることには成功しても、それは個人の自由や自主性を尊重するキリスト教文化や欧米のキリスト教的信仰生活を伝えただけであって、アフリカ人の奥底の心を神の現存や働きに目覚めさせ、日々神の御旨中心に己を無にして生活させるところにまでは導かなかったのではないか、と思いました。もちろん大勢の信徒の中には、聖霊の導きや聖母の御声に従って、宣教師から受け継いだカトリック信仰に忠実に留まろうとしていた人たちも少なくなかったと察せらます。しかし、民族の指導的立場にある有力者たちは、アッラーの神に対する徹底的従順を強調するイスラム教に転向した方が、それまでアフリカ各地を植民地として支配していたヨーロッパ諸国から独立した新しい国家建設のため、また各地の諸部族を団結させるために不可欠と考えたのではないでしょうか。彼らはそれまで信奉していた同じ神を新たな形で信奉し続けるのですから、信仰を捨てたのではありません。

  聞くところによりますと、それまでキリスト教宣教師たちからは厳しく排斥されていた民間のアフリカ人祈祷師たちも、奥底の心に働く霊を重視するイスラム教を評価し、イスラム教側でも、アフリカで古くから伝わっているその民間信仰を、あの世の神からの声を伝えるパイプ役に成り得るとして容認していたそうであります。アフリカ人たちは、近代西欧諸国が広めた理知的芸術的なキリスト教文化ではなく、アッラーの神に対する徹底的従順心によって諸部族の奥底の心を目覚めさせ、相互に堅く結束させてくれるイスラム教の内に、西欧諸国から独立した新しい国造りに各地の諸部族を一致団結させる基盤を見出した、と考えてよいのではないでしょうか。アフリカ諸国のこのような動向に対しては、欧米社会に根付いて数百年間も美しい花を咲かせて来たキリスト教をそのまま導入するのではなく、考えの異なる無数の異教徒や無宗教者にも大きく心を開いて対話し、苦労を共にしながら一緒に社会を善くして行こうとする奉仕的福音愛の実践が、宣教師にとり何よりも大切なのではないでしょうか。使徒パウロがフィリピ2章に書いているように、「自分を無にして僕の身となり、人間と同じようになって」ひたすら神の御旨に従って生きる生き方を体現すること。メシアがお示しになったこの生き方に倣うことが、アフリカだけではなく、極度に多様化しつつある現代社会で宣教を成功させると思います。

  59年にローマで布教学を学び始めた私と同期のブラジル人神父から聞いた話ですが、自分たちの教授は「諸宗教という言葉が今日多く聞かれるが、神の御前では一つの宗教しかない、と自分は考えている」などと話しているとのことでした。私はそれを聞いて、ヨハネ福音書10章に読まれる主キリストの「善い羊飼い」についての譬え話を思い出しました。そこでは、「私には、まだこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いになる」という主のお言葉が読まれます。「この囲いに入っていない羊たち」という主の御言葉は、2千年前に主が創立なさったキリスト教の外に暮らしている無数の人々、キリスト教徒よりも遥かに多くの異教徒や無宗教者たちを指しているのではないでしょうか。これからの時代は、聖書もキリスト教の教えも知らずにいるその人たちも、善い羊飼いキリストの導きに従って一つの群れになる時代なのかも知れない、などと私は考え始めました。

  私はまた使徒言行録10章に読まれる、聖ペトロの体験も思い出しました。そこではまず、カイザリアにいるローマ軍の百人隊長コルネリオが、幻の中で神の使いから、ヨッパにいるペトロという人をカイザリアに招致する命令を受けます。私はこのコルネリオをマタイ福音書にもルカ福音書にも記されている、十字架上での主の御死去を見届けて「真にこの人は神の子であった」と話したという百人隊長であろう、と考えています。コルネリオからの使者たちがヨッパに届く直前に、昼の祈りを捧げていた聖ペトロも、神から三回も不思議な幻を見せられ、その度毎に「神が清めたものを清くないと言ってはならない」というお声を聞きました。神からのこの声に促されて数人の信徒たちと共に訪れたカイザリアの百人隊長の家でも、ペトロは自分の説教を聞いていた多くの異邦人たちが、突然聖霊の賜物を受けて異言を語り神を称えるのを見て、「この人たちは私たちと同様に聖霊を受けたのですから」と言って、彼等に水の洗礼を受けさせたそうです。

  ここで、まだ神からの教えを知らずにいた多くの異邦人たちが、水の洗礼を受ける前に聖霊の賜物を受けて神を称えたという聖書の記事に注目したいと思います。マタイもルカも洗礼者ヨハネが、「私は水によって悔い改めの洗礼を授けている」が、私の後に来られる「その方は聖霊と火によってあなた方に洗礼をお授けになる」と話した言葉を伝えています。水の洗礼を受けなければ救われないという、従来のカトリック教会内に広まっていた民間信仰は公会議直前頃のローマでは、少なくとも一部の学者たちの間では弱まっており、彼等はこれからの時代には聖霊の洗礼を受ける人が多くなり、前述した善い羊飼いの譬え話にある「こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる」という主のお言葉が実現する時代になっていくのかも知れない、教皇ヨハネ23世が「教会のアジョルナメント(現代化)」を目的としている今度の公会議は、そのための道を切り開くのかも知れない、などと考え始めていました。それで私も、この公会議の後には、カトリック者もそうでないキリスト者たちも、またキリスト教の教えを知らない無数の異教徒・無宗教者たちも、聖霊に導かれて主キリストを救い主として信じるようになり、カトリック信者にはならなくても、全人類の非常に多くの人が善い牧者キリストの御声に従って相互に助け合い、生活するような時代になるかも知れない、などと思うようになりました。


公会議開催準備の動向を垣間見て

  59年1月25日に聖パウロ大聖堂で、公会議の開催を公言なされた教皇ヨハネ23世は、同年5月の聖霊降臨祭に、国務聖省長官タルディーニ枢機卿を長とする臨時準備委員会を介して、世界中の司教・カトリック大学などから公会議の議題についての意見や要望をお求めになりました。寄せられた意見や要望は非常に多くて2千以上となり、それらは整理されて翌60年5月に12巻の書に纏められました。この意見書を集める過程で、教皇は59年9月に、教会のアジョルナメント(現代化)を目指すこの公会議の目標を一層明確にし、@カトリック信仰の強化、Aキリスト者道徳の刷新、B教会法の改定の三点を掲げて、この公会議がカトリックでないキリスト者たちにとっても、教会一致を求める招きとなることを希望しておられます。そしてこれまでの公会議とは異なって、今度の公会議ではどんな異端説をも断罪しない、信仰思想の統一を目指す会議ではないから、と付け加えられました。翌60年6月には、マスコミ機関のための事務局と、キリスト教一致推進事務局とを設置し、後者の事務局長としては、長年の聖書研究でプロテスタント諸派に知られているドイツ人イエズス会員Augustin Beaを任命し、同時に彼を枢機卿の位に上げて、教皇庁保守派の枢機卿たちとも対等に話し合えるようになさいました。そしてこのベア枢機卿を介して、カトリック以外のキリスト教各派に、公会議にオブザーバーを派遣するようにと招請なさいました。この招請を受けて公会議に出席したオブザーバーは全部で60名ほどと記憶しています。その中にはわが国のプロテスタント諸派を代表して、公会議の第一会期に京都大学の有賀鉄太郎教授が、第二会期以降には同志社大学学長の土居正俊教授が出席していました。

  しかし、教皇が59年1月に公会議の開催を公言なさった時に、ローマ教区民の生の声や要望を聴くためにと開催を約束なさったローマ教区総会が、1年後の60年1月24日から31日にかけて開かれると、そこで教皇の御前で発言したのは、これまでのローマ教区の状態や指導に皆満足しており、この伝統を今後もこのまま変更せずに続けて欲しい、という保守的意見の人たちだけでした。この総会開催の少し前に、「今度のローマ教区総会がこれから開催される公会議のモデルになるから、できるだけ多くの人に出席して欲しい」という教皇庁役職者たちの言葉から察しますと、この総会で教皇の前で発言した数多くの人たちは、全て教皇庁保守派から選ばれた人たちだけであったと思われます。老教皇もそのことは察知なされたと思いますが、公会議開催の準備はこの頃から、教皇が意図しておられた、全人類に向け大きく心を開いて話し合う全く新しい現代教会の生き方を産み出そうとする若々しい路線から離れて、まず数多くの準備委員会を設置し、各委員会に公会議の審議に提出する議案を起草させて、それらを中央準備委員会で審議するという、教皇庁保守派で決めた路線に転向し始めました。そして61年のクリスマスに大勅書”Humanae salutis”により公会議を正式に招集した教皇を長に戴くこの中央準備委員会には、保守的な教皇庁役職者たちとその息のかかった世界各地の枢機卿たちが任命されたので、そこではこれまでの教会の伝統をなるべく変えないようにしようとする保守的意見が強くて、教皇はそれらの意見をお聞きのなるだけで殆ど何もお話しにならず、後には体調の不調を理由にして欠席なさることが多くなりました。60年3月に枢機卿に任命された日本の土井大司教もその委員会の一員でしたが、イタリアのラジオ放送の解説を聞く限りでは、殆どいつも保守派の意見に賛意を表明するだけのようでした。それでローマでは、61年11月25日に満80歳となられた多少病弱の教皇がもしも逝去なされたら、教皇庁は公会議を辞めさせるのではないか、などと囁かれていました。また教会史学部の私の教授は弟子である私に、「公会議には聖霊も働くが、同時に屡々悪霊も頻繁に働く時なので、これからの動きをよく観察しているように」と話されました。それで、62年春にローマの教皇庁認可聖書学研究所(Institutum Biblicum)で教えていたノース、ツェルヴィック、リヨネの優れた進歩的三教授が、「聖書学に歴史批判的方法を導入している」という理由で危険視され、教皇庁の保守派枢機卿たちによって一時的に教職から追放されるという、これまでには考えられなかった事件が発生しますと、私はやはり悪魔も働くのだと痛感しました。

  しかし教皇は保守派のそのような動きに負けずに、61年5月15日には回勅”Mater et magistra”を公刊して、労働問題に対する歴代教皇たちの進歩的見解を一層発展させました。教皇がその中で現代の多元主義社会と民主主義とを積極的に肯定し、考えの異なる人たちとも協力していっしょに未来世界を建設しようとする、超教派的精神を説いておられることは注目に値します。そして公会議が始まる直前の夏、6月頃のことであったかと思いますが、教皇がイタリア共産党が社会のために為している各種の働きを高く評価する発言をなされたら、そのお言葉は教皇の写真と共に大きく印刷されて、共産党員たちによりイタリア全土の街角の随所に数多く張り出されました。その少し後に行われた国会議員の総選挙に、イタリア共産党は全国で議席数を大きく伸ばしました。その頃一人の共産党員は、カトリック司祭の服装をしていたブラジル人と私に、「教会の司教・司祭たちは、教会に大きな寄付をしてくれる資本家たちと結ばれているので、イタリアでは共産党員になったら教会には行かない規則になっています。それで自分は教会の中には入りませんが、日曜日には教会に行く妻子を車で送り迎えしており、信仰を失った悪い人間ではありません。貧しい人たちの生活向上のために社会悪と戦っているのです。教会があまりにも資本家たちと結託して、その代表者たちを支援しているのが良くないのです。死が近づいたら、自分も教会に行きます」というような話をしました。少し後の事ですが、ヨハネ23世の精神を受け継いだ教皇パウロ6世も、イタリア共産党に対しては心を開いておられました。公会議の休期中であったか公会議閉会頃であったか記憶が定かでありませんが、イタリア共産党の党首が死去した時、教皇はその葬儀をラテラノ大聖堂で挙行することをお許しになりました。するとイタリア全国から非常に多くの共産党員たちが参集して大聖堂前の広場を埋め尽くし、大きな十字架を背負ったり大声で聖歌を歌ったりしていました。涙を流してその時の感激を語る共産党員たちを見て、私は、この公会議によってこれまでのカトリック教会と共産党との忌まわしい隔ての壁も取り除かれるに到るであろう、などと考えました。


公会議開催直前と第一会期・第二会期の動向を垣間見て

  62年の春から夏にかけて公会議の諸準備委員会は、前述した全世界のカトリック界から寄せられた意見書や要望書に基づいて、公会議の審議に提出される議案の草案を作成しましたが、中央準備委員会に提出すると次々と厳しく批判され、書き直しを命じられました。それでそれらの意見書や要望書と中央準備委員会の保守的判断との間に挟まれて、動けずにいる委員会が多くなりました。しかし、その中にあって典礼準備委員会の作成した草案だけは、中央準備委員会側からの批判もそれ程厳しいものではありませんでした。それで公会議では、まず比較的によく準備されていた典礼憲章の議案についての討議から始められました。典礼は教会活動に中心的意義を持っている上に、誰でも比較的容易に論議することができ、この討議を通して2千数百人の公会議教父たちの動きの趨勢を最もよく打診できると、司会者団が考えたからでした。

  こうして当時は「聖母のMaternitas(母性)の祝日」とされていた10月11日の公会議開会式が近づくと、教皇はご病体にも関わらず、9月にロレットの聖母聖堂とアシジに巡礼し、ローマに近い小さな聖母巡礼所にも立ち寄って、公会議の成功を祈願しましたが、聖母マリアの格別のお取り次ぎにより、極度に多様化しつつある現代社会の中にあっても豊かに実を結ぶことのできる、新しい霊性に生きる教会が誕生する恵みを願い求めたのだと思います。10月初めにはローマでラテラン大聖堂への盛大な祈願行列を挙行し、これには信徒30万人と、既にローマに到着していた司教数百名も参加しました。公会議開会式に、教皇は約1時間の説教をなさいましたが、その中で次の三つのお言葉、即ち@この公会議の使命は、単に伝承された真理の保持ばかりでなく、その教えの一層深い理解と、現代社会の状況におけるキリスト教的良心の形成に向かって、明るい建設的精神で前進することにあること、A教会はこれまで人間の誤謬と戦い、それらを屡々厳しく断罪して来たが、今はむしろ自らの教えの真実性を積極的に世に示し、憐れみという救済方法を実践すべきであること、B現代の人々が生きる意味と目標とを見出すのを助け、正義と平和と全ての人の兄弟的一致を促進するキリスト教的愛を至る所に広めて、全ての人を救いに導こうとしておられる神の御意志に奉仕すべきであること、などのお言葉は、この公会議招集の目的を示していたように思います。私は後年福者マザーテレサの生き方やお言葉を知るに及び、あのマザーテレサの生き方、即ち民族・宗教の違いをそのままに尊重しつつ、全ての人の内にその人を救おうとしておられる主キリストの現存と働きを見出し、その御旨に神の僕・はしためとして奉仕する生き方が、教皇ヨハネ23世が目指しておられた教会のアジョルナメントだったのではなかろうか、と考えています。

  病気がちだったヨハネ23世は、公会議開催の準備中にも時々ミラノ大司教モンティーニ枢機卿(次の教皇パウロ6世)の援助を受けておられましたが、公会議の会期中には、彼を絶えず側近に置くためにヴァチカン宮殿内の隣室に住まわせ、その助けを受けておられました。それでモンティーニ枢機卿は公会議場では、ただ一度だけ62年12月6日に発言しただけでしたが、教皇の演説や決定の背後に陰の力として奉仕しており、公会議全体にも大きな影響を及ぼしていました。教皇は63年4月11日の聖木曜日に回勅”Pacem in terris”(地上に平和を)を発布しましたが、モンティーニ枢機卿の助けを受けて作成したと思われるこの回勅の豊かな内容は、後に現代世界憲章などの公会議文書の中にも取り入れられています。教皇はこの回勅の中で、歴代教皇たちの共産主義批判を撤回してはいませんが、しかし当時の世界的冷戦状態解消のためか、極めて巧妙な表現で世界平和のためには共産主義者たちとも平和共存する必要性のあることを説いておられます。理論的外交的には対立解消が絶望的であるからこそ、何よりも神の助け導きと人の心の善良さに信頼して、世界平和のために新しい相互愛の道を開こう、それが思想・伝統の違いを超えて人類を一つの群れにしようとしておられる善い羊飼いキリストに従う道、現代教会の生きる道、と信じておられたのではないでしょうか。共産主義者たちの見解を変更させなくても、彼らと平和共存し、彼らの上にも神の恵みを祈り求めつつ共に世界平和と人類福祉のために尽力するのが、これからの新しい教会の生きる道と考えておられたのだと思います。その後継者パウロ6世は、異教徒たちについても同様に考え、彼らの信仰や伝統をそのまま肯定して平和共存に心がけ、共に人類の宗教心高揚と福祉のために積極的に協力し合うのが、新しいカトリック教会の生きる道と考えておられたように思います。

  公会議第一会期では10月13日の第一回総会から、教皇庁の役職者たちを中心とする少数派の保守派と、その他の進歩派とが激しく対立しました。しかし、長くなるのでそれらの詳細は省きます。ただこの第一会期中に話されたベルギーのド・スメット司教の、提出された議案の中に見られる勝利主義・聖職者至上主義・法律主義などは、キリストの「旅する教会」の精神と合致しないという発言や、同じくベルギーのスーネンス枢機卿の「世界に開かれた教会」などの言葉は、教会の現代化は、千数百年に及ぶこれまでの教会の重厚な保守的伝統から自由になって、主キリストが教会を創立し使徒たちを派遣なさった時の、自由で貧しい原初の宣教精神に立ち返ることによって可能になる、という印象を公会議教父たちに与えたようです。「旅する教会」というのは、主キリストやマザーテレサのように、今助けを必要としている人たちを尋ね求めて旅すること、「世界に開かれた教会」というのは、進歩派・保守派を問わず考えの違う全ての人に心を開いてその声に耳を傾け、神の愛をもって問題解決の道を一緒に考える教会という意味だと思います。

  公会議の典礼委員会は、62年春にローマ郊外の避暑地ネミの山に完成した、世界各国に散在している会員たちに新しい神学思想を半年間単位で学習する便宜のために創られた、多くの個室を備えた神言修道会の新しい大きな修道院を借用して、公会議が閉会するまで夏でも冬でも度々会議を開催していましたので、その修道院に滞在して一緒に生活することの多かった私は、公会議の趨勢についてその委員会の委員たちから直接に聞いていました。その時私の受けた印象では、公会議公文書の多くはいつも初代教会の若々しい宣教精神を現代に生かすにはどうすべきか、という観点から作成されていたように思います。したがって、それらの文書を解釈する時にも、伝統の改革を望む現代人の理知的精神で分析し、現代人の合理主義精神で受け止めようとするのではなく、全人類の救いのために神から派遣された貧しい初代教会の若々しい希望と奉仕愛の精神で、理解すべきであると思います。

  しかし、公会議の第一会期に進歩派の教父たちが圧倒的勝利を収めると、ヨハネ23世が63年6月に逝去して、次のパウロ6世が登位して公会議の第二会期を開くまでの間に、西欧では何方か優れた若手神学者が、カトリック教会の伝統を大きく変革してもっと現代化すべきだというような論文を公刊し、それが多くの若者たちに読まれて歓迎されたようです。63年秋に私がローマで会った若いドイツ人司祭たちは、ミサを人々の理解できないラテン語で捧げるのは意味がない、ミサは聖堂奥の壁に向かって捧げるのではなく、信徒席の近くで全て現地人の言葉で為すべきだ、プロテスタントとカトリックとの一致のため司祭も結婚すべきだ、などの過激な主張を話していました。私はその論議にドイツ語で対抗できませんでしたが、63年10月29日に、マニラのサントス枢機卿が推進していた聖母憲章の議案が公会議の審議に採択されず、最近話題になっているプロテスタントのカトリック復帰を容易にするためには、それを簡潔にして教会憲章の議案の第8章に書き換えた方がよいという、ウィーンのケーニヒ枢機卿の提案が、1,114票対1,074票というわずか40票の差で議決されると、後年私も公会議のこの議決には驚かされ、悪霊がこの時点で公会議を歪めることに成功し、ヨハネ23世が意図していた教会のアジョルナメントは、期待された成果を発揮できなくなったのではないか、などと考えています。というのは、私の接することの多かったドイツ語を話す若手聖職者たちは、この第二会期の頃から公会議をカトリックのこれまでの伝統を改革する会議と捉えて、頻りに「改革」という言葉を口にするようになり、その人たちと親しくしていた一人のイタリア人神学生は、助祭になる秘跡を受けずに後回しにしていました。私から理由を尋ねられると、その人は公会議が司祭の結婚を認めるか否かを知ってからにしたい、と答えていました。そして第四会期に教皇の特別介入によってその結婚が認められなくなると、その人は神言会神学生を辞めてしまいました。後年ヴァチカンから公表された全世界の司祭数の統計を見ても、この第二会期以降70年代中頃までの間に司祭を辞めて結婚した人の数は非常に多くなっています。司祭を辞めて結婚した人が3千人を超えた年も何回かあります。それで私は、この公会議第二会期頃から、悪霊たちがカトリック教会内に頻繁に働くようになったと受け止めています。


公会議後に見聞きした出来事の寸描

  ヨハネ23世の精神を受け継いだ教皇パウロ6世からの招きで、わが国からは立正佼成会の庭野日敬氏を初めとして、東京都立川市の仏教系新興宗教真如苑の創立者夫妻、柴山禅師ら禅宗諸派の代表者一行や伊勢神宮の館長など、様々の宗教代表者たちが次々とヴァチカンを訪れて教皇と謁見し、共々に人類の宗教心と社会奉仕の精神育成のために協力して尽力する意志を表明していますが、私はこれこそ、ヨハネ23世が目指しておられた教会現代化の動きであり、他宗教や無宗教の人たちとも心を大きく開いて対等に話し合う、世界に開かれた新しい福音的教会への道、善い羊飼い主キリストがこれまでの思想や伝統の違いを超えて、全人類を聖霊の導きに従う一つの群れにして下さる道であると受け止めていました。それで、京都のNCC宗教研究所の所長で同志社大学学長の土居正俊教授が、オブザーバーとして公会議の第二、第三、第四会期に出席した後に、二度ほどプロテスタント有識者たちの研修会を開いて、ご自身の見て来た第二ヴァチカン公会議の新しい精神について説明した後に、1968年から夏季休暇を利用して、毎年わが国の宗教的中心地を訪れて二泊三日ほど滞在し、そこの宗教行事や信仰活動を参観したり、指導的学者・教育者たちからその宗派の歴史や教えなどについての講義を聴いたりする研修会を始めると、私は68年の伊勢神宮での研修会には案内を受けなかったので欠席しましたが、その後は高野山・比叡山を初めとして毎年参加し、90年代半ばまでの20数年間に、仏教・神道の本山・社寺や新興宗教の中心寺院、並びに東京にあるユダヤ教のシナゴガやイスラム教の寺院などでも研修を受けました。そして、思想も伝統も異なるそれらのどの宗教・宗派の信仰者たちの中でも、神の聖霊がそれぞれ異なる仕方で働いておられるのを、私なりに感じ取ることができました。また90年代の始め頃からは、手島郁郎氏が1948年に熊本で創刊した月刊誌『生命之光』を毎月愛読しています。そしてその月刊誌に寄せられた読者たちからの数多くの体験報告から、神の聖霊はキリスト教を知らない現代人のためにも、その祈りに応えて様々の奇跡的治癒や奇跡的働きを為さっていると確信しています。また日々その読者たちのためにも、ミサ聖祭を捧げて神の恵みを祈り求めています。これが、全てが極度に多様化している現代世界にあって、思想や信仰の違いに囚われずに、使徒聖パウロのように、聖霊の愛の器となって「全ての人に全てとなって」奉仕する現代教会の道、公会議が意図していた生き方ではないでしょうか。

  公会議が閉会した直後頃の話に戻りますが、公会議の第二会期からローマで議案の作成に協力して来た神学者カール・ラーナーがAnonyme Christen(無名のキリスト者) についての論文を公刊しました。これは、キリスト教以外にも善い羊飼いキリストの声を聴き分けて、それに従って生活している人たちが大勢いることを説いた論文で、教会現代化の公会議精神に即したものであり、当時は世界的に有名になりました。それで、66年7月に教皇パウロ6世の依頼で、カール・ラーナーやイーヴ・コンガールら若手神学者を含む、当時の有力神学者15名がネミ修道院で一週間の研究会を為した機会に、当時そこでドイツ語で半年間の研修を受けていた私を含む40名程の神言会員たちが、日曜日にカール・ラーナーに依頼して、それについて1時間程の講話をしてもらいました。その時ラーナーは、公会議精神に基づくこの論文に対する、当時のカトリック諸方面からの否定的、批判的反応が非常に強いことだけを話していました。その嘆きを聞いて、私はヨハネ23世の目指しておられたカトリック教会のアジョルナメント(現代化)は、公会議後半に激しくなった悪霊たちの働きで実現できないのではないかと思いました。そして同年帰国しましたら、間もなく日本の教会では「典礼改革」という言葉を度々聞くようになり、70年代前半には古い貴重な祭服やカリスなど数多くの典礼用品が廃棄されたり、それまで聖堂に飾られていた美しい聖母像が撤去されたりするなど、様々の新しい試みが導入されました。当時私は自律神経失調で、精神医の勧めで一切の役職から退き安静に心がけていましたので、それらの変化に反応できませんでしたが、しかし、公会議公文書には一度もreformatio (改革)という言葉は使われておらず、主キリスト時代の新しい精神に立ち帰り、神の僕・はしためとして生きるという意味でrenovatio (刷新)という言葉が多く使われていることを忘れてはならないと思います。公会議公文書の改訂訳が発行されたことに私は感謝していますが、その事項索引に「改革」があり、そこに挙げられている箇所には「刷新」の言葉はあっても、「改革」の言葉は一つもないことから考えると、わが国では第二ヴァチカン公会議が、今でも古い伝統の「改革」として誤まって受け止められているのではないでしょうか。

  人間理性で造り上げた新しい改革思想を最高の基準とし、その立場から理解し難いものを排除する生き方に固執してはならないと思います。2千年前頃にファリサイ派の教育を受けたユダヤ人たちは、神からの古い啓示に基づく律法に従わない者を神に従わない者として断罪していましたが、使徒パウロはガラテヤ書3章の中で、律法をキリストに導く「養育係」と規定し、キリストが来臨した以上、私たちはもうその養育係の下にはいないと説いています。そのキリスト再臨間近の時代に生きる私たち現代のキリスト者も、これまでの信仰思想や生き方一つにに固執せずに、神からの新しい呼びかけに従って全ての人のため、キリスト教を知らない人のためにも、特に助けを必要としている人たち皆のために奉仕すべきなのではないでしょうか。最高のものは、聖書でも神学でもなく神御自身であり、聖書も神学も、以前に神が語られたり為されたりしたことを見聞きした人間たちが、その信仰を他者に説明し伝えるために理性を使って産み出した作品であります。それは、この世で信仰生活を営むため伝えるために与えられた養育係ですが、この世の人間にとってはあまりにも神秘で奥深いあの世の霊界の真理ではありません。従ってそれを最高の真理として信奉し、今なお新しい働きを続けておられる神秘な神に対する謙虚な僕・はしための精神に生きようとしない人たちは、2千年前のファリサイ派信仰者たちのように、人間中心主義のアダムの罪の償いを求めておられる神から厳しい処罰を受けることになる、と恐れます。13世紀の偉大な神学者聖トマスは、頭脳を基盤とするこの世の理知的理解能力ratio(理性)と、霊魂に基盤を持つと思われる芸術的な感知と悟りの能力intellectus(知性)とを峻別し、晩年には御自身の執筆した理知的な神学大全の価値を低く評価する言葉を残しています。この世の終末期を間近にして、神の聖霊は教会をまた全人類を新しいものに造り替えようとして全く新しい働き方をしておられるように思います。神のその新しい呼びかけや働きに積極的に従い協力するのが、神の僕・はしためとして召された私たちカトリック者の生きる道ではないでしょうか。ヨハネの第一書簡2章には、終りの時代には反キリストが大勢現れるように述べられていますが、現代はまさにそのような時代だと思います。主は山上の説教の中で、「滅びへの門は広く、そこから入る人は多い」と話しておられます。豊かな情報と便利さに溢れている現代社会にあって悪霊の働きを回避するためには、聖霊の導きに従う「細い道」を見出し、その道を歩む僕・はしための信仰心が何よりも大切であると思いますが、いかがでしょうか。

  私が66年秋に帰国してから十数年後の80年代になってから聞いた話ですが、公会議前後の頃に様々の人たちに出現して語っておられた聖母マリアは、この公会議がこれからの教会の歩みの転機になる、というような話をなさったそうです。何方に何時そのような話をなさったのかは知りませんが、察するに、それは63年秋の公会議第二会期頃のメッセージだったのではないでしょうか。聖母マリアは80年代後半を最後にその後はどこにも御出現にならず、誰にも語っておられないようですが、公会議の第二会期頃から聖母崇敬を著しく軽視して、「典礼改革」、「典礼改革」と叫びながら以前のようにはロザリオの祈りもしなくなっているカトリック者たちは、聖母マリアからのお助けも殆ど受けられずにいるのではないでしょうか。初代教会の信仰の若さを失っているそのような教会は、ヨハネ23世の目指しておられた新しい教会ではないと思います。主は「ファリサイ派のパンだねに警戒しなさい」と警告しておられますが、このお言葉は、私たち現代人にとって特別に大切だと思います。

  公会議後の教会に対する批判を一番最初に公言したのは、私の知る限りでは、公会議の初めからケルンのフリングス枢機卿の神学顧問として全ての動きを見ておられたラッツィンガー神父(後の教皇ベネディクト16世)であったと思います。ドイツからの知らせによると、70年のクリスマスにミュンヘンのラジオ放送で、公会議の思い出について尋ねられた神学教授ラッツィンガーは、公会議後5年間のドイツ教会では有能な教会人たちが次々と会議を開いてその決議や指令を出しているだけで、公会議の精神に従ってこつこつと実を結ぶためには殆ど時間を取っておらず、空しい「紙の改革」になっていると厳しく批判したそうです。福音には「木はその結ぶ実によって分かる」という主のお言葉がありますが、公会議閉会後今年で50年になるのに、カトリック教会は未だに公会議によって期待された大きな豊かな実を結んでいないように思います。いかがなものでしょうか。カトリック教会の改革を求めるドイツのマスコミから激しく攻撃されていたベネディクト16世は、教皇を引退なさる少し前に故国ドイツの大統領からの招聘でドイツの国会で演説なさった時に、マスコミの基盤であるこの世の理性と、神が今の人類から求めておられる愛に根ざした霊魂の知性との違いについて話されたようですが、この違いを識別して主が警告なされた「ファリサイ人のパンだね」を避けることが、現代の私たちのとって特に必要なことと思います。

  私は福者マザーテレサの生き方が、世界に開かれた公会議後の新しい教会の一つの姿を表現した活動として高く評価しています。福者マザーテレサのように右翼や左翼の一切の政治活動に関与せずに、進歩的な人にも保守的な人にも神の愛をもって近づき、人類全体の神の下における相互愛推進に努めるのが、教皇ヨハネ23世の目指しておられた、現代の極度の多様化文明世界に生きるカトリック者の生き方であると思います。


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