[見解 4]
(1) この文書は、http://www.mgrschraven.nl/
サイトにあり、シュラーヴェン司教列福財団が事件当日の事を取り纏めては発表したもののようで、財団の見解を示す重要文書の一つと思われます。
(2) それにしてはいつ作成された文書か、日付がありません。記述者は、
Wiel Bellemakers c.m. Vincent Hermans. のお二人なのでしょうか。
(3)
フランス国立図書館のサイトから入手したルーアン及びルアーヴル教会報1938年2月26日号には、これらの乱入者について、「...疑いも無く朝鮮人又は満州国人から成る、武装して威嚇する遊撃隊が...(une
bande de soldats armés, menaçants, irréguliers coréens ou mandchous sans
doute…)」と記述されています。“The drama of
Zhending”に当該部分は見当たりません。遊撃隊に拉致されたのはその40人の内の7名の欧州人のみで、多くの中国人聖職者は一人も拉致されていません。欧州人には日本人、朝鮮人、満州国人の区別はつかないにしても、そこにいた中国人にはその区別がついたと考えるのが自然で、ルーアン及びルアーヴル教会報の記述は納得のいくものです。後述の1937年11月15日にde
Vienne司教が日本人神父の田口師、日本陸軍の横山少佐がカメラマンを伴って実施した正定カトリック施設の事件調査の際には、居合わせた中国人聖職者の目撃証言は当然聴取されたことでしょう。フランス人司教、日本人司祭、カトリック信徒である日本軍士官立ち会いの下での目撃証言は、フランス側もこれをこれを受け止めた上で、本件については以後問題を提起しないことで決着したものと、私たちは資料から理解します。上記ルーアン及びルアーヴル教会報の記述に、それが反映されていると考えます。当時の大日本帝国外務省の記録帳にある記述とも付合します。
(4)
本文には「...10月9日の朝、日本軍は町の占領を完了し、軍の主力部隊は(町を出て)更に前進した。...」と明確に述べられており、軍事行動中であります。
そのことは、[外務省・支那事変 第三國人関係事故及被害関係]昭和12年27034北京森島参事官10月25日発廣田外務大臣宛報告、
「24日佛國大使館ヨリ正定[カトリック]教会カ10月9日所属不明ノ匪賊ヨリ攻撃ヲ受ケ左記9名拉致セラレタル旨ノ報道ニ接シタル趣ヲ以テ日本軍側ニ於テ詳細事情調査ト共ニ救出方配慮ヲ得度キ旨申越セル處軍事行動中軍側トシテモ特ニ措置スルノ余裕ナカルヘシト思考セラルルニ付教会関係者ヲ現地ニ入レ自ラ匪賊側ニ折衝セシムルノ外ナカルヘシト思考セラル」
に符合します。
軍事行動中にそれを離れて、婦女子を求める“遊び”をすることは、銃殺刑覚悟になります。
(5)
日本兵の犯行であれば、フランス大使館より調査の依頼があればむしろ引き受け、糊塗しようとするのが自然です。ここでは逆に、被害者側に対して犯人との直接の接触を進言しています。
(6)
「今や人々はde Vienne司教及び横山少佐の調査によってより正確な情報を得ていた。」
この“執筆者”は、「正確な情報」の内容を記述していません。一次資料は全く示されていません。
(7)
「永年に亘って人々はその殺人の動機について確答が得られなかった。いずれにせよ、このドラマの主役達は全て殺され、それについて語ることは出来ない。」
上の文章は、「今や人々はde Vienne司教及び横山少佐の調査によってより正確な情報を得ていた。」と矛盾します。
(8) 事件当夜、拉致された欧州人被害者以外に、30人余りが現場に居合わせていました。「その晩、突然兵士達が入って来た時、食堂には40人程の神父がいた。」と本文に記されています。それらの証言に基づいた結果が、「ルーアン及びルアーヴル教会報1938年2月26日号」に示されていると、私たちは考えます。
(9) 「近年になって、多くのジグソーパズルのピースが組み合わされて、その動機が明らかとなった。以下の事実が発見された。」
つまり、断片(pieces)を組み合わせて“ドラマ”を作ったと、自ら記しています。
(10) 正定から30km離れたTinchowの町の出来事が正定事件の証拠にならぬことは当然です。
(11) 正定近くのトラピスト修道院の院長、Chanet神父、Aube宣教師は、現場にいた人たちではありません。通常は「証人」になり得ません。正定事件における乱入兵士達を目撃していない人々の一般論的見解を拠り所にして、70年余り経った今、「真の動機を掴んだ」とは、強すぎる推測と思います。
(12) 証言が行われた日付がありません。
(13) Ds.R.E.Hillの“証言”はすべて、他人が言ったことを、「聞いた」ということです。“中国人の通訳の言葉”というのは、通訳が Olivers 宣教師に語ったことで、ここに書かれた内容は Olivers 宣教師が通訳から「聞いた」ことでしょう。証言する人が本当に日本軍司令官の通訳官であったかどうかも不明です。1937年11月15日の調査結果の原典資料が見たいものです。
(14) “Luen (Shanxi)のオランダ・フランシスコ教団の神父達”は、日本語によほど堪能であったのか、あるいは日本の兵士たちがオランダ人に通じるほど語学が出来たのか。又そうであったとしても、そのことが正定事件の証拠になるでしょうか。言葉は言葉、その真実を第三者は知ることが出来ません。
(15) “トラピスト修道院のDennis van Leeuw神父”は当事者ではありません。何を書こうと話そうと、証拠価値はありません。ここに書かれている“風評”で人が犯罪者にされるなら恐ろしいことです。私たちの「常識」は、そのように判断します。
(16) 日本軍の軍紀はこの種の行為を厳しく禁止していました。しかしながらそれを無視した兵士は少なからずいたでしょう。罰を覚悟で行動する者は、何処にでも、平時にもいます。それを正定事件と結びつけるなら、その証拠となる必然が必要でしょう。一つの悪事が、それ自体、他の悪事の証拠になり得ないことは当然です。
(17) 「カトリック施設の構内には、元々から住んでいる1000人に加えて、主として婦人及び子供達から成る約2000人がいた。」と記されています。事実とすれば、3000人が居たことになります。3000人を収容できる(生活できる)施設というものがどのようなものか想像がつきませんが、いずれにせよ夥しい人々が居た訳です。その人たちの直接証言が一切出てこないのはどういう訳でしょうか。
(18) Joseph Chow Chih-yi神父の名前は1937年11月15日の調査結果の部分にも出て来ます。その時の調査報告では、「疑いも無く朝鮮人又は満洲国人の...」とあったのが、「日本兵は...」に入れ替わっています。
(19) 「Joseph Wang神父は1937年当時15歳でその住まいに居たが、」
「その住まい」というのが、何処であったか、不明です。
(20) 「日本軍の女性要求200人」については、1938年12月に近くのトラピスト修道院の Dennis van Leeuw 神父が、書いた手紙に、
たまたまやって来た「中国語の上手な日本兵達」から聞いた情報
として記載されています。
また、その後2005年の次のような情報も紹介されています。
「2005年に、「Schraven司教及びその仲間達の殉教」というタイトルの小冊子が出版された。」
その内容は分かりませんが、 “The drama of Zhending, 9 October1937.”の執筆者も冊子を参照しているはずですから、主要な内容は
drama 本文に取り入れられていると考えます。その中で証言している人物、Mr. Ming-Sho-Chaoは、証言当時92歳でした。
「誘拐事件の3日後に正定に行った」と記されています。“3日後”というのもご本人の“記憶”ですが、68年前のことです。しかも現場に居たのではありません。「その日の早朝、侵入者達は司教に兵士達の慰安のための200人の娘達を差し出せと要求した。司教はそれを拒絶した。そのために日本軍はいきり立ち、これらの残虐行為を犯した」
というのは、“仄聞”です。92歳の人の68年前の仄聞情報です。
(21) 私たちが不思議に思うのは、目的と結果の乖離です。犯行者の目的は、「200人の女性」です。聖職者たちではないし、ましてその殺害ではありません。9人を取り除いたのは、目的の障碍である故、だったはずです。そもそも「200人の女性」が目的であるなら、Schraven司教たち9名を殺害する必要があったでしょうか。無視して、押し入ればよいことではなかったでしょうか。そして9人を殺害した後、目的である200人の女性は、放置したのでしょうか。それであれば、目的でない行為を行い、目的である行為を棄てたことになります。「ドラマ」として完結しません。
又、女性たちの証言が無いのは、どういう理由でしょうか。
(22) これだけの事件が、何故、「戦犯裁判」の俎上に上らなかったのでしょうか。
|