正定事件
事件の発生 : 1937年(昭和12年)10月9日 中国河北省正定

現時点における私たちの見解

教会の政治的言動を憂慮する会・有志
2013年11月25日

 

今までに発表したもの
 

01 「カトリック新聞」 2012.11.04(4169)号

02 読売新聞大阪版2013.02.21夕刊 「池長潤・大阪大司教に聞く」

03 「カトリック新聞オンライン」 2013.04.11

04 池長潤大司教への公開質問状 2013.05.23

05 池長潤大司教への公開質問状追伸 2013.06.17

06 池長潤大司教様よりの電話 2013.06.24

07 正定事件の真実の究明・中間報告 2013.08.06

 

[見解 1]

上の、01~07番資料は、既に公開しているものです。ここで特に追加する見解はありません。

 


 

第一章 事件発生にもっとも近い時点の内外資料

 

08 外務省『支那事変 第三國人関係事故及被害関係』(派遣軍行動ニヨル事故ヲ含ム)、
並びに外務省執務報告 東亜局 第三巻 昭和十二年 p.329~330 (事件発生16日後の公式報告)

09 Eglise de Rouen et du Havre, 1938/02/26(A37,N9)  (事件発生4ヶ月後のカトリック教会側資料)
(ルーアン及びル・アーヴル教会報 1938.02.26) 出典:フランス国立図書館デジタル・アーカイヴ

10 支那事変ニ関連スル在支第三国(英米ヲ除ク)財産被害調査表/1939年(抜粋)
11. 支那事変ニ関連スル在支第三国(英米ヲ除ク)財産被害調査表/1939年(原典).djvu


[見解 2]

08番09番資料は、日付内容ともほぼ一致します。事件発生15日後の記録です。これによれば、

「24日佛國大使館ヨリ」
「10月24日在北平佛國大使館ヨリ」

と、事件の第一報はフランス大使館より入っています。少なくとも日本大使館、まして本省が知っていた形跡はありません。フランス側は犯人を、「所属不明の匪賊」と知らせ、日本側に対して、調査並びに救出方を依頼しています。11月中旬にはローマ教皇庁使節からも調査の依頼が出ています。しかるに11月末に至るも「何等情報ナキ」と記されています。

上の08番09番に10番資料を加え時系列で整理しますと、(原典は和暦)

(仏)1937.10.24 佛國大使館より森島参事官宛真相調査方依頼
(日)1937.11.10 天津堀内総領事発北京森島参事官宛
               機第104号を以て軍側の調査書送付
(日)1937.11.22 正定に於て挙行弔祭式に我方参列
(日)1938.02.27 北京に於て横山少佐より見舞金として九千円
           寄附金として一万五千円北支カソリックに手交
(日)1938.04.16 森島参事官より佛大使館に対し物的損害に対し
           一万五千円寄附として一万円其他千円手交
(仏)1938.04.16 佛大使館覚書を以て本件に関しては
           今後何等問題を提起せさる旨申越

(1) 「機第104号を以て軍側の調査書送付」とありますが、私たちはそれを見出していません。ただ後述の[和蘭]資料1937.11.27に、「該事件は支那敗残兵の所為なる旨回答」とあるので、その主旨のものと想定できます。

(2) 「正定に於て挙行弔祭式に我方参列」、
日本側が葬儀ミサに参列したということです。カトリック新聞記事によれば日本側が主宰したことになっていますが、しかし私たちは日本側が主宰したとの資料を見出し得ていません。主宰者であったか参列者であったかはさておき、直前に9人を焼殺したグループと、その被害者につながる人々が、共同で追悼したとは、私たちは不自然と思います。

(3) 「見舞金」「寄付金」をどのように理解するか、でありますが、当時「正定」は日本軍の管轄下にあって、(それ故、フランス大使館もローマ教皇庁使節も、日本に、調査・救助を求めて来たのでしょう)、その言わば縄張りの中で起きてしまった事件に対しての、「見舞」「寄付」である、というのが私たちの理解です。9人の聖職者・関係者を惨殺した賠償であるなら、人の命は余りに安いと言えます。当然あるべき首謀者の断罪記録も見当たりません。「物的損害」については記録されていますが、人間については語られていません。

(4) そして、1938.04.16、「本件に関しては今後何等問題を提起せさる旨」、フランス大使館覚書が出ています。日仏間ではここで決着しています。

(5) 1938.02.27に日本がカトリック教会に見舞金と寄付金を渡したとほぼ同じ時期、フランス本土での記録があります(09番資料)。
1938.02.26日付で犠牲者の一人、Emmanuël Robial 師について語られた、『ルーアン及びル・アーヴル教会報』です。
そこでは犯行者を、「朝鮮人又は満洲国人から成る、武装して威嚇する遊撃隊(即ち匪賊)」と記されており、日本兵の犯行を示唆する文言はありません。この資料は、犠牲者本人の所属教区報であること、事件発生から4ヶ月後であること、日仏間で決着のついた時期に合致することによって、フランス側大筋の認識を示していると言えます。つまりフランスは、事件発生から決着まで、日本兵の犯行とは思っていなかったと理解できます。

 

[見解 3]

10番資料より : [波蘭(ポーランド)]資料
一部読み取り不自由な文字がありますが、

1938.04.02 在支波蘭公使発日高総領事宛公文を以て
        損害賠償要求
1938.05.07 森島参事官往訪回答文を手交遺憾の意を表し
        将来の保証に付凡ゆる措置を講?じたる旨通報
1938.07.22 波蘭公使発谷公使宛公文を以て森島参事官の
        提示せる条件を受諾するも遺憾の意
        表明のため北京より代表者来滬(
*)方要求
1938.08.06 矢口書記官波蘭公使を往訪遺憾の意を表明

ポーランド側より日本へどのような損害賠償要求があったのか、不明です。いずれにせよそれに日本側が応じ、ポーランド公使はその内容は受け入れるが一言遺憾の意を表明に来いということで、1938.08.06 矢口“書記官”が訪問、遺憾の意を表明して決着した、ということでしょう。時期から見てフランスへの「見舞金」「寄付金」手渡しの後で、随分遅い申し入れです。

(*)滬は上海の別称。つまり、ポーランド大使館は、「北京(の日本大使館)から上海(のポーランド大使館)に遺憾の意を表明しに来ることを、要求した」という事です。

10番資料より : [和蘭]資料

(日付不明)和蘭公使公文を以て真相調査方要求
1937.11.27 該事件は支那敗残兵の所為なる旨回答
1938.01.11 和蘭公使発公文を以て厳重抗議
1938.01.14 森島参事官和蘭公使を往訪詳細説明
1938.02.27 見舞金額を手交
1938.04.16 見舞金額を手交 現地解決
1938.04.19 堀内参事官和蘭公使を往訪

交渉はあったようですが、要は「金」で、“現地決着”しています。

 

 

 

第二章 オランダ側資料の検討

 

12. オランダ Mgr.Schraven Stichting 表紙
 

シュラーヴェン司教列福財団Webサイトのホームページです。

 

 

13. The drama of Zhending, 9 October 1937.
 

[見解 4]

(1) この文書は、http://www.mgrschraven.nl/ サイトにあり、シュラーヴェン司教列福財団が事件当日の事を取り纏めては発表したもののようで、財団の見解を示す重要文書の一つと思われます。

(2) それにしてはいつ作成された文書か、日付がありません。記述者は、 Wiel Bellemakers c.m. Vincent Hermans. のお二人なのでしょうか。

(3) フランス国立図書館のサイトから入手したルーアン及びルアーヴル教会報1938年2月26日号には、これらの乱入者について、「...疑いも無く朝鮮人又は満州国人から成る、武装して威嚇する遊撃隊が...(une bande de soldats armés, menaçants, irréguliers coréens ou mandchous sans doute…)」と記述されています。“The drama of Zhending”に当該部分は見当たりません。遊撃隊に拉致されたのはその40人の内の7名の欧州人のみで、多くの中国人聖職者は一人も拉致されていません。欧州人には日本人、朝鮮人、満州国人の区別はつかないにしても、そこにいた中国人にはその区別がついたと考えるのが自然で、ルーアン及びルアーヴル教会報の記述は納得のいくものです。後述の1937年11月15日にde Vienne司教が日本人神父の田口師、日本陸軍の横山少佐がカメラマンを伴って実施した正定カトリック施設の事件調査の際には、居合わせた中国人聖職者の目撃証言は当然聴取されたことでしょう。フランス人司教、日本人司祭、カトリック信徒である日本軍士官立ち会いの下での目撃証言は、フランス側もこれをこれを受け止めた上で、本件については以後問題を提起しないことで決着したものと、私たちは資料から理解します。上記ルーアン及びルアーヴル教会報の記述に、それが反映されていると考えます。当時の大日本帝国外務省の記録帳にある記述とも付合します。

(4) 本文には「...10月9日の朝、日本軍は町の占領を完了し、軍の主力部隊は(町を出て)更に前進した。...」と明確に述べられており、軍事行動中であります。
そのことは、[外務省・支那事変 第三國人関係事故及被害関係]昭和12年27034北京森島参事官10月25日発廣田外務大臣宛報告、
「24日佛國大使館ヨリ正定[カトリック]教会カ10月9日所属不明ノ匪賊ヨリ攻撃ヲ受ケ左記9名拉致セラレタル旨ノ報道ニ接シタル趣ヲ以テ日本軍側ニ於テ詳細事情調査ト共ニ救出方配慮ヲ得度キ旨申越セル處軍事行動中軍側トシテモ特ニ措置スルノ余裕ナカルヘシト思考セラルルニ付教会関係者ヲ現地ニ入レ自ラ匪賊側ニ折衝セシムルノ外ナカルヘシト思考セラル」
に符合します。
軍事行動中にそれを離れて、婦女子を求める“遊び”をすることは、銃殺刑覚悟になります。

(5) 日本兵の犯行であれば、フランス大使館より調査の依頼があればむしろ引き受け、糊塗しようとするのが自然です。ここでは逆に、被害者側に対して犯人との直接の接触を進言しています。

(6) 「今や人々はde Vienne司教及び横山少佐の調査によってより正確な情報を得ていた。」
この“執筆者”は、「正確な情報」の内容を記述していません。一次資料は全く示されていません。

(7) 「永年に亘って人々はその殺人の動機について確答が得られなかった。いずれにせよ、このドラマの主役達は全て殺され、それについて語ることは出来ない。」
上の文章は、「今や人々はde Vienne司教及び横山少佐の調査によってより正確な情報を得ていた。」と矛盾します。

(8) 事件当夜、拉致された欧州人被害者以外に、30人余りが現場に居合わせていました。「その晩、突然兵士達が入って来た時、食堂には40人程の神父がいた。」と本文に記されています。それらの証言に基づいた結果が、「ルーアン及びルアーヴル教会報1938年2月26日号」に示されていると、私たちは考えます。

(9) 「近年になって、多くのジグソーパズルのピースが組み合わされて、その動機が明らかとなった。以下の事実が発見された。」
つまり、断片(pieces)を組み合わせて“ドラマ”を作ったと、自ら記しています。

(10) 正定から30km離れたTinchowの町の出来事が正定事件の証拠にならぬことは当然です。

(11) 正定近くのトラピスト修道院の院長、Chanet神父、Aube宣教師は、現場にいた人たちではありません。通常は「証人」になり得ません。正定事件における乱入兵士達を目撃していない人々の一般論的見解を拠り所にして、70年余り経った今、「真の動機を掴んだ」とは、強すぎる推測と思います。

(12) 証言が行われた日付がありません。

(13) Ds.R.E.Hillの“証言”はすべて、他人が言ったことを、「聞いた」ということです。“中国人の通訳の言葉”というのは、通訳が Olivers 宣教師に語ったことで、ここに書かれた内容は Olivers 宣教師が通訳から「聞いた」ことでしょう。証言する人が本当に日本軍司令官の通訳官であったかどうかも不明です。1937年11月15日の調査結果の原典資料が見たいものです。

(14) “Luen (Shanxi)のオランダ・フランシスコ教団の神父達”は、日本語によほど堪能であったのか、あるいは日本の兵士たちがオランダ人に通じるほど語学が出来たのか。又そうであったとしても、そのことが正定事件の証拠になるでしょうか。言葉は言葉、その真実を第三者は知ることが出来ません。

(15) “トラピスト修道院のDennis van Leeuw神父”は当事者ではありません。何を書こうと話そうと、証拠価値はありません。ここに書かれている“風評”で人が犯罪者にされるなら恐ろしいことです。私たちの「常識」は、そのように判断します。

(16) 日本軍の軍紀はこの種の行為を厳しく禁止していました。しかしながらそれを無視した兵士は少なからずいたでしょう。罰を覚悟で行動する者は、何処にでも、平時にもいます。それを正定事件と結びつけるなら、その証拠となる必然が必要でしょう。一つの悪事が、それ自体、他の悪事の証拠になり得ないことは当然です。

(17) 「カトリック施設の構内には、元々から住んでいる1000人に加えて、主として婦人及び子供達から成る約2000人がいた。」と記されています。事実とすれば、3000人が居たことになります。3000人を収容できる(生活できる)施設というものがどのようなものか想像がつきませんが、いずれにせよ夥しい人々が居た訳です。その人たちの直接証言が一切出てこないのはどういう訳でしょうか。

(18) Joseph Chow Chih-yi神父の名前は1937年11月15日の調査結果の部分にも出て来ます。その時の調査報告では、「疑いも無く朝鮮人又は満洲国人の...」とあったのが、「日本兵は...」に入れ替わっています。

(19) 「Joseph Wang神父は1937年当時15歳でその住まいに居たが、」
「その住まい」というのが、何処であったか、不明です。

(20) 「日本軍の女性要求200人」については、1938年12月に近くのトラピスト修道院の Dennis van Leeuw 神父が、書いた手紙に、
  たまたまやって来た「中国語の上手な日本兵達」から聞いた情報
として記載されています。

また、その後2005年の次のような情報も紹介されています。
「2005年に、「Schraven司教及びその仲間達の殉教」というタイトルの小冊子が出版された。」
その内容は分かりませんが、 “The drama of Zhending, 9 October1937.”の執筆者も冊子を参照しているはずですから、主要な内容は drama 本文に取り入れられていると考えます。その中で証言している人物、Mr. Ming-Sho-Chaoは、証言当時92歳でした。
「誘拐事件の3日後に正定に行った」と記されています。“3日後”というのもご本人の“記憶”ですが、68年前のことです。しかも現場に居たのではありません。「その日の早朝、侵入者達は司教に兵士達の慰安のための200人の娘達を差し出せと要求した。司教はそれを拒絶した。そのために日本軍はいきり立ち、これらの残虐行為を犯した」
というのは、“仄聞”です。92歳の人の68年前の仄聞情報です。

(21) 私たちが不思議に思うのは、目的と結果の乖離です。犯行者の目的は、「200人の女性」です。聖職者たちではないし、ましてその殺害ではありません。9人を取り除いたのは、目的の障碍である故、だったはずです。そもそも「200人の女性」が目的であるなら、Schraven司教たち9名を殺害する必要があったでしょうか。無視して、押し入ればよいことではなかったでしょうか。そして9人を殺害した後、目的である200人の女性は、放置したのでしょうか。それであれば、目的でない行為を行い、目的である行為を棄てたことになります。「ドラマ」として完結しません。
又、女性たちの証言が無いのは、どういう理由でしょうか。

(22) これだけの事件が、何故、「戦犯裁判」の俎上に上らなかったのでしょうか。

 

 

 

第三章 「池長書簡」の検討

 

14. オランダサイトで公開された池長潤大司教の書簡
 

[見解 5]

(1) 宛先がありません。「書簡」の体をなしていません。従ってこれは「書簡」でなく、深水神父の代読した2012年10月14日の“池長メッセージ”の読上用原稿なのかも知れません。

(2) それにしてはオランダのサイトでは代読する深水神父と共に、中核的資料として載せられています。証明書と位置付けられているのです。

(3) 宛先が無いのみならず、明らかな数字的間違いがあります。出す方も、これを資料として公開する方も、私たちから見れば、いい加減です。

(4) これが、「カトリック新聞」 2012.11.04(4169)号で、シュラーベン司教の記念式典において、「池長大司教の書簡も拡大して枠に収め、掲げられた」と報ぜられたものでしょうか。しかもそれが一つの「証明書」のように扱われているとすれば、恥ずかしいことと思います。

(5) もしもこれが『池長書簡』でないなら、「池長書簡」は、何処にあるのでしょうか。読売新聞 2013.02.21の記事で池長大司教は、
「昨夏、37年に中国で日本軍のため殉教したシュラーベン司教の記念式典に招待する手紙が司教の母国オランダから寄せられると、軍の蛮行を謝罪し故人をたたえる返書を送った。」
と語っています。“夏”ということですから、少なくとも2012年9月上旬迄に、オランダへ送られた書面があるのです。(“昨夏”が、オランダからの手紙が届いた時期か、返書を送った時期か、不明ですが、常識的に季節を跨ぐずれはないでしょう)
それこそ正に『書簡』ですが、それは何処にあるのでしょうか。

 

 

 

第四章 その他の資料
 

15. オランダサイトに引用されているカトリック新聞 2012.11.04(4169)号の記事

16. UCA news/Remembering nine brave men martyred in China (2012年10月9日の記事)

17. 2012年10月14日、池長大司教書簡(代読・深水正勝神父)に応えての Savio HON tai-fai大司教(SDB)の言葉

18. 2012年10月14日のミサに出席した聖職者

19. 現状における私たちの見解

20. [附録] 当時の「正定」を伝える、朝日新聞 S12.10.9 S12.10.15 S12.11.7  日本カトリック新聞 S12.12.26
 

[見解 6]

16番資料以外は、特に述べる見解はありません。

[UCA news]2012年10月9日付の記事にも、私たちが[見解 4]で検討した以上の、新しい資料の発見はありません。すべて「伝聞」記事です。

気になるとすれば、この記事の発信日が2012.10.09であることで、2012.10.14に行われた「シュラーベン司教殉教75周年記念式典」(「池長大司教メッセージ」の読み上げられた日)に重なります。

これらの発信源がどこか一カ所であると想像することは、十分な妥当性があると考えます。そしてその想定が正しいなら、池長大司教の入手した「断罪の根拠」も、これらの記事以上のものではないと想定できます。改めて、池長大司教は、その疑問に答える義務があるでしょう。

なお[UCA news]は、サイトにある通り、中国、インド、インドネシア、韓国、フィリピン、ヴェトナムに支局があり、日本にはありません。

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